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中山町誌

三、 国会議員選挙と中山町

 大日本帝国憲法以前
 江戸時代は、一般庶民が国政を批判することはおろか、政治を話題とすることも禁じられていた。民衆が国政に参加する権利(参政権)がなかった。民衆は一部の者に支配されていた。
 明治時代になっても、この状態は変わったわけではない。ただ権力が幕府から藩閥(薩長)に移ったに過ぎない。もし変わった点があるとすれば、それは世論が多少なりとも政治に反映し、政治を動かすようになったということであろう。
 そして、世論の力によって政治を国民の手にしようという運動が明治時代の前半期を彩ることになった。この運動は議会政治を目指し、自由民権運動と呼ばれる。
 これはまず明治七年(一八七四)一月に土佐藩出身の板垣退助らの「民撰議院設立建白書」提出となって表れた。その後、自由民権運動は日本国中に広がった。
 この世論の力に動かされ、明治八年には「漸次立憲の政体を立つべし」との詔勅が発せられ、日本も欧米諸国にならって「立憲政体」に進む方針が示された。しかし、藩閥政治は続き、自由民権運動に対し激しい弾圧が加えられた。
 明治二二年(一八八九)二月一一日に「大日本帝国憲法」が発布され、「貴族院令」「衆議院議員選挙法」も制定された。帝国議会(国会)は貴族院と衆議院の二院から成り、貴族院は皇族・華族の中から選ばれる議員と勅選議員、並びに多額納税者議員、衆議院は公選された議員によりそれぞれ構成されることになり、国民の政治への参加が認められた。

 制限選挙時代
 衆議院議員選挙法では、二五歳以上の男子で同一府県内に満一年以上本籍を定めて直接国税一五円以上を納める者に選挙権が、選挙府県内で直接国税一五円以上を納める満三〇歳以上の男子に議員資格が与えられた。当時の県内の人口は九三万三、三六八人、有権者は七、〇〇四人であったから総人口の〇・八%しか選挙権をもたなかった。旧中山村では、明治二四年八月の有権者数は一二人であった。この頃の人口を三、〇〇〇人と推定すると総人口の〇・四%に過ぎなかった。選挙区は小選挙区で愛媛県は六区に分割された。中山・出淵・佐礼谷村ともに第一区(松山市・温泉郡・風早郡・和気郡・久米郡・下浮穴郡・伊予郡)に属した。投票は原則として自書主義がとられたが、代書も許された。投票する者は投票用紙に自分の住所氏名を記載捺印する、記名投票制であった。
 このように国民の一部に参政権が与えられ、第一回衆議院議員選挙が明治二二年(一八八九)七月三日に行われた。この時、第一区からは藤野政高(愛国派)・長屋忠明(愛国派)が当選した。
 第二回衆議院議員選挙は明治二五年二月一五日に行われ、藩閥政府は選挙干渉を行った。第一区から藤野政高(自由党)・小林信近(改進党)が当選した。また、第三回衆議院議員選挙は三月一日に、第四回衆議院議員選挙は九月一日に実施された。
 その後、明治三一年三月一五日に第五回衆議院議員選挙が行われ、中山村では有権者一五人全員が投票している。この時の投票明細書によると投票所は役場で、投票者の内一一人が文書を書くことができないので代書投票を行っている。この時の出淵村の有権者は一七人であったが、投票状況等は不明である。この頃の開票は、投票箱を松山市まで立会人と共に運んで開票されていたもので、投票箱が松山市に着くと次のような届書を第一区選挙長へ提出している。

    参着届
 衆議院臨時選挙投票凾携帯之上立会人井上伊太郎ト共二参着当松山市小唐人町久保豊治郎方へ本夜止宿致候条此段及御届候也
  三月一六日
         中山村長 福島運太
 第一区選挙長殿

 この時の選挙で、第一区から武市庫太・高須賀穣(自由党)が当選した。明治三三年に、これまでの選挙法が改正された。これは明治二二年の選挙法が農業代表に偏するという非難が商工業者から出たために次のように改められたものである。
 ① 選挙権者の要件である納税額を一〇円に引き下げた。これにより有権者の範囲は拡大された。この後は選挙法の改正の度に財産上の制限は縮小されていった。
 ② 小選挙区を県単位の大選挙区に改め、市を独立の選挙区とし、郡部では人口約一三万人につき議員を選出するのに対して、市では人口三万人以上で一名を選出することができた。このように都市に著しく有利に改正したため、愛媛県では松山市一名、郡部七名、計八名の定員となった。
 ③ 投票はすべて単記・無記名方式とした。
 このように財産上の制限引き下げにより有権者数は増加したが、明治三五年(一九〇二)八月一〇日の第七回衆議院議員選挙では、中山村五五人、出淵村三三人で総人口に占める割合はまだ非常に低かった。
 この時の記録によれば、出淵村は盛景寺で選挙を行っており、投票者三〇人、棄権者三人で、自書不可能なもの一三人となっている。中山村では五五人の有権者中五〇人が投票している。
 明治三六年三月一日に第八回衆議院議員選挙が行われ、中山村では有権者五五人中五〇人が投票し、出淵村では有権者三一人中二八人が投票している。この選挙の出淵村投票所は役場であった。以下衆議院議員選挙年月日は次のとおりである。
 第九回   明治三七年三月一日
 第一〇回  明治四一年五月一五日
 第一一回  明治四五年五月一五日