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中山町誌

三、 国会議員選挙と中山町

 大日本帝国憲法と選挙
 明治二二年に発布された大日本帝国憲法(明治憲法)で、ようやく国民の政治への参加が認められるようになり立憲国家として出発したが、民主主義的な議会政治が確立するには、まだまだほど遠いものであった。
 大正八年に選挙法の改正があり、財産上の制限は緩和された。選挙権の要件である納税額が三円に引き下げられたのである。これは当時普通選挙の要望が世論になりつつあったために引き下げられた。この改正された選挙法による総選挙が大正九年五月一〇日に行われた。しかし、大正期における有権者数など選挙に関する記録はない。

 普通選挙の実施
 財産制限を撤廃しようとする普通選挙運動は、明治の三〇年代から起こっていた。
 大正に入って労働運動が起こると、当時最大の労働団体である友愛会が普選要求をスローガンに揚げるなど、普通選挙への要望が急激に一般化することになり、大正一四年(一九二五)加藤内閣の手で選挙法が改正され、ようやく普通選挙が実施されることとなった。
 この改正法で重要なのは次の点である。
 (一)選挙権の要件であった納税要件を全廃した。これが普通選挙法と呼ばれるゆえんである。
 (二)選挙区を中選挙区とした。
 (三)議員候補制度を認め、立候補の届出をしない者は有効な投票を獲得することができないとした。またこれに関連して、無投票当選制度も認めた。
 (四)選挙運動の取締りについて詳細な規定を設けた。運動期間、従業者の資格と人数等、またそれまで盛んに行われていた戸別訪問、個々面接などが禁止された。さらに運動費についても厳重な制限規定を設けると共に、一般罰則を加重した。
 しかし、この普通選挙でもまだ婦人には参政権が与えられなかったし、年齢の満二五才以上という制限も変わらなかった。一方、有権者の数は残念ながら直接の資料がないので判明しない。
 昭和三年(一九二八)二月二〇日、普通選挙での一回目の選挙が行われ、第一区からは、須之内品吉(政友)、高山長幸(政友)、岩崎一高(政友)の三人が当選した。ついで昭和五年二月二〇日に第一七回総選挙が行われた。
 第一八回は昭和七年二月二〇日に行われ、第一区からは、大本貞太郎、武智勇記、須之内品吉が当選している。その後昭和九年選挙法が改正され、選挙運動の取締りをいっそう厳重にし、同時に公明選挙運動に対する保護を強化した。その後総選挙は昭和一一年二月二〇日、昭和一二年四月三〇日と行われ、その後は昭和一二年に始まった日中戦争により軍の政治に対する圧迫が強まり、思想、言論の統制が強化された。そして昭和一五年、大政翼賛会の創立と同時に、社会大衆党等は解党させられ、明治以来徐々に発達してきた政党政治も終わりになった。そして遂に昭和一六年には太平洋戦争が始まり、昭和一七年四月三〇日、いわゆる翼賛選挙が執行された。

 終戦と議会政治の復活
 昭和二〇年(一九四五)日本は連合軍に降伏し、占領軍の管理下に置かれた。占領軍は日本民主化のために、言論、結社の自由を認めたので各政党は相ついで復活した。他方では公職追放令が実施され、戦時中軍に協力した者は、広い範囲にわたって公職を追われることとなった。
 こうした中で、昭和二一年四月一〇日に第二二回総選挙が行われた。「敗戦による苦悩の深淵から脱出して、この国に民主の黎明を告げる歴史的総選挙……」として国民の新時代への信頼と希望をかけて、投票することになった。この時初めて婦人に参政権が与えられたほかに、有権者資格について次のように大幅な変更が加えられた。
 (一)選挙人の資格は日本人で二〇才以上の者。
 (二)選挙区は県を単位とする大選挙区制とした。
 (三)投票には三名連記制度がとられた。
 このため有権者の範囲は大幅に拡張された。愛媛県の有権者数は、この時約七〇万人となった。またこの選挙では戦前の議員たちが公職追放令によって立候補を禁止されていて、いわば真空状態だったので三七人もの立候補があった。当選者は次のとおりである。

  六四、九五三票 桂  作蔵(進歩党)
  五五、〇八四  高橋 英吉(自由等)
  五二、〇〇〇  林田 哲男(社会党)
  四八、五一五  薬師神岩太郎(自由等)
  四八、〇五八  馬越  晃(進歩党)
  四七、六〇一  関谷 勝利(進歩党)
  三九、四三八  布  利秋(日本民主党)
  三八、二〇五  安平 鹿一(社会党)
  三七、一二三  稲本 早苗(進歩党)