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中山町誌

一、 第一次世界大戦と中山村

 日露戦争後、明治三九年(一九〇六)に全国的に在郷軍人会が組織されることになり、明治四〇年中山村在郷軍人会が組織された(明治四三年一二月より帝国在郷軍人会松山支会中山村分会と改称)。当時の会員数は二一七名であった。この頃日本は東洋の日本から世界の日本へと躍進していた。
 当時ヨーロッパの状勢は非常に険悪であったが、大正三年六月、オーストリア皇太子がセルビアの一青年に射殺された事件がきっかけとなって史上空前の世界大戦に発展した。第一次世界大戦では、日英同盟を理由に日本は連合国側に参加し勝利を収めた。大正七年まで続いた戦いも、日本は軍事的にはほとんど被害を受けなかったうえ、大戦景気と呼ばれる空前の好況に酔うことになった。
 この戦争には、中山町から出征者はいなかった。しかし、この大戦のさなか大正六年にロシアに革命がおき、極東における治安が悪化したため各軍が出兵することになり、松山軍隊もシベリアに出兵することになった。中山町からも出征者があったが、人員氏名など定かな記録がない。
 当時松山連隊は、歩兵第二二連隊として第五師団(司令部広島)の管轄下に置かれていた。大正八年六月、第五師団にもウラジオストック派遣が下令され、松山連隊も同月二五日に編成に着手し、七月二日高浜出帆、同月七日ウラジオ(ウラジオストック)に上陸した。それから一年余りの間ウラジオ及びチタ方面にあって、地方警備とロシア軍の排斥に任ぜられた。特に大正九年一月には、第三大隊野中支隊のムホルシビールおよびヒロークの討伐戦、同年四月五日第二大隊東支隊のシコトウならびにウラジオストックにおける武装解除、四月一二日連隊主力によるドムノクリュウチェフスカヤの戦闘など最も激烈な戦いに参加した。同年六月停戦協定が成立して同年八月三〇日全員集合、九月二~四日の三日間にウラジオから乗船して九月七~九日の三日間に高浜港に上陸して凱旋した。

図4-1 シベリア出兵行動範囲図

図4-1 シベリア出兵行動範囲図