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中山町誌

二、 満州事変~日中戦争と中山町

 第一次世界大戦中の異常な好景気は大戦の終結後一変し、経済界は不況に陥った。
 昭和六、七年にはこの行き詰りはますます深刻となり、農村恐慌はひどいものだった。
 昭和六年(一九三一)九月一八日満州事変が起こり、その余波は上海にも飛火して、昭和七年二月二四日には松山連隊にも動員命令が下った。松山連隊は二七日出発して三月二九日に凱旋している。
 満州事変以後、日本は満州における支配権を確立した。昭和一二年七月七日北京近郊蘆溝橋における日中両国軍の交戦をきっかけとして、遂に日中戦争が始まった。
 松山歩兵第二二連隊は八月二〇日に三津浜港から上海に急行し、一〇月三〇日には羅店鎮の戦闘に参加した。このようにして日中戦争が泥沼へと突入して行くのであるが、この頃から動員によって中山町からも多数の人々が出征した。
 出征軍人は、出征の朝神社で見送人に挨拶を述べて、役場の前で町長と記念撮影をした後、小学生や部落民の歌う「勝って来るぞと勇ましく……天にかわりて不義をうつ……」などの歌と日の丸の小旗に送られて紅葉谷まで行き、見送人に別れて征途に向った。
 昭和一二年一二月、日本軍南京占領の報道に、中山町では大勝利の旗行列、夜は提灯行列を行って祝った。
 この頃から完全な戦時体制に入り、国内は軍事色に塗りつぶされた。
 戦線は中国全土に拡大され、いつ果てるとも知れず、やがて行き詰りの状態となっていった。日本は戦争資源を求めて昭和一五年九月、北部仏印に進駐した。松山連隊でもこの年一二月四日、歩兵一二二連隊が編成されて、太平洋戦争に入る直前一六年一一月一六日に三津浜港を出発し、台湾に上陸した後にフィリピンでのバタ作戦に参加した。このようにして、日中戦争は太平洋戦争へと発展していった。