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中山町誌

三、 太平洋戦争と中山町

 昭和一六年一二月八日、日本軍はアメリカ海軍の根拠地であるハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、ここに太平洋戦争が始まった。
 太平洋戦争が始まると、町の男子の適齢者がほとんど出征した。一方戦死者の遺骨もたびたび送られてくるようになった。日中戦争頃は盛大に送られていた出征兵は、秘密動員によって召集令状の赤紙を受け取っても親類と隣近所くらいの他には挨拶さえできずに入隊していった。
 当初、日本は、大戦果を挙げたが、昭和一七年八月のガダルカナル反撃に遭い、その後次々とくる米英の反攻の前に戦局の様相は一変した。制空権は完全に新鋭機を出す米・英国の手に落ちて、フィリピン、沖縄、硫黄島へと進攻されるようになって、益々、作戦は困難となり、遂に日本本土爆撃が始まった。
 この本土爆撃に対して迎撃のために国内各地に飛行場が建設され、中山地方からは、吉田浜、横河原の飛行場建設に多数の人々が勤労奉仕として徴集参加させられた。また飛行機の燃料とするために小学生はどんぐり拾い、隣組では松根掘りが老幼男女の勤労奉仕で行われ、漆口には松根油採油工場が建設された。
 昭和二〇年二月マニラが奪回され、三月硫黄島が陥落した。本土空襲は順次激しくなり、この年三月一九日に敵機は初めて愛媛県を襲い爆弾を処々に投じたが人畜に損害はなかった。この頃より中山町の上空も連日B29が通過し、艦載機が飛ぶようになった。高い山頂の畑などで仕事をしていると機銃掃射を受けることもあった。二〇年四月三日米軍機が佐礼谷村に墜落、搭乗兵は捕虜になるという事件なども起こった。
 昭和二〇年六月沖縄が占領され、戦局もいよいよ終末へと近づいた。七月二六日午後九時松山市が空襲で焼かれ、八月六日に広島に、九日には長崎に原子爆弾が投下され、八日にはソ連が日本に宣戦布告した。
 ここに至って日本は八月一五日天皇自らの放送によって終戦の詔勅が下った。

図4-2 太平洋戦争地図

図4-2 太平洋戦争地図