データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

概要

 昭和二〇年(一九四五)八月一五日、日本の無条件降伏により、ここに日中戦争から九年に亘る戦争は終結し、平和を基盤とした民主主義日本が誕生した。
 マッカーサー元帥が連合軍総司令部(GHQ)総司令官として、諸般の制度を改革し選挙法の改正により、男女同権の一歩として女性に選挙権が与えられ、県知事、市町村長の直接選挙制が実施になった。ついで二一年には公職追放があり、戦争期間中の指導的人物は公職から追放された。
 大改革の一つに農地改革があり、小作人に土地が与えられ農地の平均化が行われた。
 中山町としては国の変革の大方針に沿いながら、新しい町づくりに向かって町民挙げて努力してきた。
 昭和三七年、松山市を中心に三市二郡(松山、北条、伊予、温泉、伊予)が相集い、県中央都市圏づくりの構想を進めた。その中にあって中山町は、住宅地として進展するよう企画がなされていたが、これに応えられる宅地の乏しい悪条件その他の問題もあって、やや伸び悩んでいる現状である。
 着々と実現された産業振興、人口規模、工業生産、交通網整備、観光事業等の成果の中で、中山町としては有形無形にこれらの一翼を担ってきた事はいうまでもないが、現在は何かよい糸口を求めて乗り出す待機の状況と思える。
 交通面においては、国道五六号線が一級国道に昇格し、犬寄隧道をはじめとして各所で大きな改良工事が進み、松山-大洲-宇和島へ走る大動脈の要所となった。町内の町林道はもとより、隣接町村各方面と結び合う県道も整備が進み、四通八達の感を深めている。自家用車、単車等の普及率が一人一台といわれる現在、町はさらに町内外との連絡道整備に鋭意心をくだいている。
 かねてより、国鉄新線内山線の件が期待されていたが、ようやく町民挙げての願いがかない昭和六〇年締結式、六一年三月開業となった。正確な時間運行、安い運賃等で町民の受ける恩恵は誠に大きい。改めて建設に尽力された方々に厚い謝意を表したい。

 近い将来の展望
 平成三年、目前に三本の本四連絡橋の完成、四国縦貫高速自動車道貫通、松山空港の国際化等高速交通体系が整備されることを踏まえ、松山市を中心に近隣三市三郡がそれぞれ地域の特性を生かし合い、共に発展していこうという大綱が作られた。中山町としては、一、文化交流を高め、情報化社会に遅れない開かれた中山町づくりに研究推進を心がける。二、人生八〇年代に対応した安全で快適な生活環境づくりを目指し、特に交通安全、保健医療施設や福祉サービスの充実に努力する。三、将来自由時間の増加による観光レジャー需要の増大を積極的に取り込むようにという趣旨にのっとり、町としては歴史的文化的遺産等を開発活用して、農村リゾート基地づくりの一翼を担う。四、二一世紀に向けたリーディング産業づくりに呼応して、町の地域産業の技術革新を図り、先進産業の企業誘致をねらう努力を続ける。
 以上の大きな展望の中、中山町は農林業を主産業として発展してきたことを踏まえて、豊かな自然等を基盤とする、地域に立脚した「個性的で活力に富み、ゆとりと潤いのある緑豊かな町」のスローガンを掲げている。そして都市住民との交流拠点の整備や国道整備、さらにはJR内山線の開通により、農林産品の供給基地、レクレーション基地としての役割を果たすようにと力強く計画を進めている。
 若い活力ある後継者、理解ある先輩一同、各方面に指導援助の力を注ぐ町理事者達の熱意努力が、これから花を咲かせることだろうと期待している。
 以上が中山町の戦後の概要である。次に各年代ごとの主な出来事を挙げてみる。