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中山町誌

第一節 昭和二〇~三〇年の主な動き

  ― 復興への歩み ―

 GHQによる指令第一号は軍需生産の全面停止であったが、それ以上に重大なのは、財閥の解体と農地改革それに普通選挙法の実施であった。これにより男女同権をはじめとする民主主義が力強く推し進められることになった。
 同年一一月に至って、旧大日本帝国憲法に代って、日本の今後の進路を示す、平和と民主主義国家建設を理想とする、日本国憲法が発布制定された。これに基づいて民法、刑法、商法、地方自治法など、諸法律の民主主義的な改正が行われ、特に民法においては、これまでの家族主義から親子または夫婦主義に改正された。
 また、地方自治法の改正によって、地方公共団体の独立性が強められて、国の監督権が縮小され、一般に民主主義が著しく進められるようになり、(一)男女平等の普通選挙権が与えられた。(二)新たに直接請求の権利が認められた。(三)議会の権限が強化された。(四)首長の住民による直接公選制が設けられた。㈲選挙管理委員会や監査委員など行政委員会の設置などが行われた。
 地方自治法は、その後数十回にわたり改正をくり返したが、主として占領期間中の改正は、人民自治及び団体自治の両面を一層強化する方向において行われ、独立後のそれは、概ねその行き過ぎを修正するためのものであった。
 これと並んで、地方行政に実質上大きな変革を及ぼしたものに警察法(昭和二二年一二月)や、二三年七月の教育委員会法の公布がある。昭和二三年(一九四八)七月に行われた地方自治法の改正では、地方公共団体の事務の範囲を具体的に例示し、その長に条例および予算の議決に対する拒否権を与えるなどの改正を行った。
 さらに、昭和二五年の改正では、直接請求の手続き・地方議会の運営、各種訴訟の手続きに関する規定の整備などがなされ、ここに戦後急角度の改変を受けた地方制度も次第にその形を整えてきた。
 また、シャウプ勧告の結果、地方税の根本的改革が行われると共に、地方財政平衡交付金制度が設けられた。
 昭和二三年三月、米国教育使節団の報告などに基づき教育制度が改革され、六・三・三・四制実施となった。
 同年七月、国民の祝日に関する法律が公布され、以前の勅令によって行われていたものは廃止された。その第一条に「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い感謝し、または記念する日を定め、これを国民の祝日と名づける」、とある。
 またその後、母の日、老人の日、少年の日、成人式等これにちなみ自治的主催のものに行われる、美しい風習をもった社会が営まれるようになった。
 昭和二五年(一九五〇)に至り、朝鮮動乱が勃発し、同年警察予備隊が設置されることになった。
 翌二六年に入ると追放は次第に解除された。ついで同年五月、日本国憲法の精神に従い、児童に対する正しい観念を確立しすべての児童の幸福を図るために児童憲章の制定があった。
 昭和二七年四月サンフランシスコ講和条約が発効(調印は昭和二六年)された。前年マッカーサー元帥の帰国に前後して、松山方面にいた進駐軍の徹退が行われていた。
 さらに同年七月住民登録が全国一斉に実施された。
 翌二八年九月町村合併促進法が公布され一〇月施行された。
 昭和二九年五月地方財政平衡交付金法が改正されて、地方交付税が登場し、翌三〇年一二月には二八年頃から次第に累積してきた地方団体の赤字の問題もあって、赤字解消を目的とした地方財政再建促進特別措置法が制定されている。
 昭和二九年一二月、次の町村合併を見越し、中山町の役場を、今の大字中山丑三二二番地の一ヘ移転改築した。
 昭和二九年(一九五四)一二月旧中山町と旧佐礼谷村の合併の件が、両町村共に議会において決議された。ついで翌三〇年二月一日、旧中山町と旧佐礼谷村が合併し、新たに中山町が設けられた。

 産業振興
 このような社会の大きな流れ・変革と共に、中山町も町民の生活活性化に向かって、産業振興の実を着々と膨らませていった。
 古くは江戸時代初期の頃より作られていた中山栗が、昭和に入って最盛期を迎え、日本一の名を勝ち得たといわれる。だが大戦中人手不足や肥料不足に災いされて、急速に生産が落ち込んだ。戦後、気候風土に適した栗であるから日本一の名を再びと町挙げて増産に声援を送り協力しているが、最近は外国からの安値の輸入物に押されて伸び悩んでいる。この苦しい難関を何とか乗り切ってほしいものと願っている。
 ついで葉タバコも戦前より導入され、農家の堅実な収入源として次第に耕作者を増やしていた。農家は一家総動員の労働に堪えながらも葉タバコ生産を高めてきたのである。
 昔は、葉タバコは連作を嫌い、乾燥にも並々ならぬ労力が強いられた。九段歩の畑所有者は三段歩を今年、来年別の三段歩を、また残り三段歩を再来年と振り分けて作らねばならず、現在のように連作が可能な特別の薬品を使い毎年九段歩の畑を生かして耕作できることなど夢であったらしい。現在は一町歩位の耕作者は平均的と聞き誠に耕作しやすい時代となったようだ。耕作、乾燥、出荷が大変改善された現在、昔を偲んで「今は夢のようだ」と年来の耕作者は語っている。
 また竹の子(筍)生産も盛んに行われ、古い昔から農家の副業的収入源とされてきた。盛期の四月・五月は町民の食膳をも新鮮な竹の子がにぎわしている。昭和三〇年代後半には、農協に加工場が設置され、町外各方面に移出され、一年中竹の子に親しめるようになった。だがこれも中国等から安価な竹の子が入るようになったため、生産者を苦しめつつある。
 竹の子掘りは重労働なので、若者の少なくなった中山町では将来の悩みの種となっている。

 行政の新発足
 行政面では、昭和三〇年(一九五五)二月一日に新町となって、総務・税務・厚生・産業の四課長と、大字佐礼谷に中山町支所を設け支所長が置かれた。
 これ以外に選挙管理委員会があり、四名の委員をもって構成され、その委員長の下に書記が関係事務を取扱っている。
 さらに議員及び学識経験者の中より選出された二名の監査委員が設置された。
 議会は定数(現在一六名)の議員によって構成され、旧法では町村長が議長を務めていたが、新法では議会を代表する議長及び副議長が議会運営の衝に当った。
 また議会は、町の条例に基づき委員会を設置することができたので本町においても、総務・文教・産業・厚生の委員会を置き、議会には事務局長をもうけ事務を取扱った。

 教育の改善
 その他教育面では、昭和二一年、義務教育の国民学校が小・中学校に分かれ、小学校六年、中学校三年の教育が完全に定着していった。そして昭和二三年、県立中山高等学校が新設され、町内出渕(東町)に新築開校の喜びを生んだ。

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