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中山町誌

第五節 回顧

 中山町に生きて
 終戦により満州鉄道の機関士から故郷へ帰り、農協に勤めながらわが家の農業を守り続けたN氏の言より。
 田を耕作するには牛はどうしても必要な家畜だった。この役牛の飼料の草取りは、暗い中朝食までの仕事で大変だった。秋になり青草が少なくなったら飼料取りはさらに苦労した。

 稲作
 苗代つくりも一苦労、種籾を蒔いて、育てた苗を一株一株手植えした。今も残る定規を見てこれに合わせて田を這い回り、田植えをしたものだったと懐しい。田の草取り、施肥、防虫消毒、稲刈り、脱殻、天日干し、調整、そしてやっと玄米に。機械化された今の若者にはこれらの労苦は想像がつくかしら。

 たばこ耕作
 私は主幹作物として葉たばこの栽培を始めた。落葉を集めて温床苗床を作り、点播器で播種し、間引き、定植。本畑には麦を筋条に植え、たばこ畝には堆肥を施し植付ける。施肥や病害虫の防除、芽かぎ、し止め、収穫した葉たばこ一枚一枚を連縄に挾み込み、乾燥室で薪を焚き乾燥仕上げする。室内温度の調節に留意し、眠気や蚊の襲撃と闘いながら徹夜で火力管理し乾燥、仕上げをした葉は、良否八種類に選別して梱包し収納日を待つ、並々ならぬ苦労だったが、有難い収入源だった。これも現今は大きく機械化、能率化され、はるかに楽な仕事となっている。

 みかん栽培
 長女の誕生と共に農協を退職した。そしてみかんブームが始まったので、たばこ栽培を止めてみかん栽培へ転換した。防寒のこも掛け、敷わら、防虫消毒等苦労も多かったがなかなかよい収入を得、一時は好景気だった。だが適地とはいえないこの地方でのみかん栽培は、海岸周辺の最適地にはどうしても太刀打ちできず、大量の生産過剰で価格下落を招き、私も半分余りは野菜に転換した。

 老いて思う
 主幹作物も次々変えて努力してみたが、すべて国際的な農業に移り変ってきた現在、夢はふくらんでは消え、また夢を育ててみてもふくらまず、低価格で生産できる近隣国と競合することは並々ならぬ我慢と苦労がある。政治がどう動くか、頭脳と体力をどう使うか今後の大きな問題と思う。我が家の後継者は私らと同居しながらも既に別の自営業に移り、やがて完全に農業から離脱していくことと思う。あれこれ努力管理してきた農地・山林の将来はどうなるのかと、私だけにとどまらない今後の大きな課題を憂えている。

 老人の山仕事の思い出

 一四歳の少年の頃より山林一筋に働き続け、七〇歳の峠を元気に越した山林男、山を愛し立木を愛し中山町内外の山を守り育てたT氏の言より。
 私は山林の手入れが大好きで、一四歳の時から山で働き始めた。七〇歳の今まで植林、下刈り、間伐、枝打ち伐採、木出し、何でもやってきた。ほとんどと言ってよい位他人様の山で働いた。あの山この山、中山町以外でも方々の山を手がけた。そしてどの山にも愛着・思い出がいっぱい。我が子を偲ぶように山の様子が浮んでくる。
 山林は人一代に一回か、二代で一回位しか切れない。その遠い夢に向かって努力する山主と力を合わせて働いてきた私の人生、悔いは全く無い。
 雪害や台風での倒木、これらを見ると無性に心が痛む。これらの災害を乗り越えてすくすく伸びている美林に会うと何時までも眺めていたい気持ちになる。
 山林はあまりソロバン玉をはじいてはやれないと思うが、きっとよい時が来ると信じている。三〇年程前、久万町の山師に枝打ちを教わり私もやり始めた。やはり努力しただけあって一〇年、一五年後の枝入れ木は(枝打ちした木)一際立派に成長している。今後は計画的に間伐、枝打ちをして優良材作りに努力せないかんのじゃないかな。
 私は今までに六〇万本程の苗木を植えたように思う。自分ながらよく働いたと思う。この日本の宝が五〇年、一〇〇年太り続けてくれるよう、また立派な建築材となって有効に使われてくれるようにと祈っている。