データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

四、 中山村と出渕村の合併

 明治二二年(一八八九)市町村制の施行により、下浮穴郡の中で、それぞれ単独村制を実施し、同二九年(一八九六)、郡の再編統合によって共に伊予郡に属した中山村と出渕村が明治四〇年(一九〇七)一月一日に合併し、新しい中山村が誕生した。
 当時、合併の理由として、三九年二月一三日の知事宛て請願書によると、「泉川なる一小川を以て村境をなし、あたかも瓜の二つ割に等しく、役場の設置位置も二町以内のところにあり、中山、出渕の両尋常高等小学校がその距離僅かに三町内外のところにあり、これが境界の川辺に町が構成されており、物産、貨物等の集散離合の要地となっていて、合併すれば双方の便利が大にして、加うるに中山校舎は狭隘にして且大破損を来し、危険なるゆえ合村成れば出渕校へ合併建築したいので急を要す」とし、合併後の名称を中山町としたいと申請している。
 ついで、同年九月二日には、「古来より当地は他方面と商業上の取引をなすも総て中山村と称するもの最も稀にして、概ね中山町と称し、殊に出渕村民の如きも他の地方へ出たる時は総て中山町と称するにより、該名称の如きは其の地の符号なれば中山町と改称するを適当と認む」と、時の村長は郡長よりの照会に回答している(昭和四〇年発行『中山町誌』から)。
 同年同月二〇日、中山村は村会を開設して、「中山・出渕両村合併ニ付本懸参事會の諮問ニ對シ意見答申之件」を議題とし、議長奥田石五郎は原案のとおり答申することに決したとある。
 時を経ないで愛媛県参事会で議決され、内務大臣の許可を受け両村の合併が実現した。
 「愛媛県告示第六百六十六号
  愛媛県参事会ニ於テ左ノ通議決シ内務大臣ノ許可ヲ受ケタリ
  明治三十九年十二月二十日 愛媛県知事 安藤謙介町村制第四条第一項ニ依リ伊豫郡中山村並ニ出渕村ヲ廃シ其区域ヲ以テ新タニ中山村ヲ置キ、旧村ノ財産ハ之レヲ新村ニ移スモノトス
  但シ本件ノ廃置ハ明治四十年一月一日ヲ以テ施行ス」   (「愛媛県布達々書」・『愛媛県史』)
 このように、両村を廃止して新たに中山村を置くことになり、念願の中山町制施行は大正一四年四月一日となった(別項に記述)。