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中山町誌

一、 明治時代の社会福祉

 窮民救済と頼母子  
 江戸時代には、飢饉や災害などの非常時に備えて、困窮者を救済する社会事業が進められた。それは穀物を貯える囲米、穀物などを給付する救助米、臨時救助施設としての御救小屋の設置などであった。明治四年(一八七一)になると「行旅病人取扱規則」・「棄児養育米給与方」が布告され、同七年には「恤救規則」が公布されて、放置し得ない困窮者を公的資金によって救済することにした。だが同時に、この規則は生活難に陥った人々への救済は「人民相互の情誼による」とも記しており、短絡的に生活困窮者が国や地方公共団体の手によって生活を保護されるものではなく、あくまでも村落内での相互扶助が大切にされた。
 中山村で明治一九年に始まった頼母子講の記録が残っている。頼母子講は頼母子とか無尽とも称される相互救済のための庶民金融で、講の仲間が金や米を持ち寄り、抽選や入札で合計額を順番で使うものである。「明治十九年旧十一月起 頼母志帳 頭取 武田亀七」と記する古文書には「今般、私義内間不如意に付き光陰凌ぎ難く、金六十圓の頼母志を発起仕りたく、客君に御嘆き申し上げ候処、格別の御厚情を以て御加入くだされ、御高思浅からず御引立の段、鳴謝奉り候。然しては御定めの通り終会まで違変なく、厳重に掛け送り申すべく候。依て一札件の如し。頼母志各位御中 明治十九年旧十一月武田亀七 印」とあり、山本金十郎・津田甚三(以上二口)・河野勝五郎・亀本彌平・松田喜三郎・大岡金治郎・河野万造(以上一口)ら八人(一〇口)が「連」を組織した。
 「連中定約」が決められ、会合は旧暦の三月二〇日と一〇月二〇日の年二回開かれ、頭取の歩合(年利息)は一割三分(一三%)、会料(寄合の費用)は一人白米一升に相当する金額として合計金額から差し引くこととしていた。頼母子の期間は四年間、一回の掛金は七円八〇銭であり、最初の六〇円を受け取った武田亀七は、後のために「質物として私所持の家財残らず入れ置き申し候」との証文を書いた。

 郡中貯と備荒貯蓄  
 江戸時代の寛政年間以来、大洲藩の替地郡中三四ケ村(伊予市・砥部町・広田村・小田町の大部分と中山町・松前町の一部)では「郡中貯」と呼ばれる凶荒備蓄制度が発達していた。貯えられた穀物は貸し付けなどの方法で増殖され、また米相場を利用して新たな利殖を得て、郡中の村々では共有財産を増やして、これを凶年の備えや低利融資・窮民救助費に当てていた。明治二三年の町村制実施を機にこの共有財産が各村に分配されることになった。
 上灘村の倉庫に貯えていたものの内、佐礼谷村への配分高は粟九一石二斗八升・干し飯二石三斗・現金六五円五銭五厘であった。すぐに配分されても適当な倉庫を持たない佐礼谷村では、村会議員の徳田弥太郎・仲田友五郎・篠崎亀太郎・久保田兼五郎らが共有財産の活用策を論議した。「貯蔵するにも適当の場所なき故に、組々に配分して適宜保護するの外に策あらず」、「相当の価格を以て売却し金銭として積立る方が簡易なり」との意見も出た。結局、備荒貯蓄資金・恤救資金として留保し、早急に「貯蓄土蔵を営む」ことに決した。その際、従来より積立ててきた「鉱山報」(寺野鉱山・佐礼谷鉱山など村内に数か所あった鉱山に関する会計の意か)九七二円の半額を備荒資金に繰り入れ、残金を各戸に分配することも決まった。
 この年佐礼谷村では風火干害などの罹災者に救助費九円、病気による必要な出費の援助として二円、村内で行き倒れた男性二名(和気郡馬木・富山県砺波出身)の埋葬費用として二円七七銭を支出している。また、明治四一年度に村の学齢児童は男一四一人・女一四七人で、うち二人が貧困による不就学児であった。村では県の補助金を得て一日一人三銭の支給を開始している。これらの窮民に対する保護策として、佐礼谷村「窮民救助基金蓄積条例」を村会決議したのは、大正八年(一九一九)九月四日のことである。この条例の骨子は、基金は、一、〇〇〇円に達するまで、寄付金や村の予算に計上した窮民救助費の歳計剰余金を蓄積する。基金より生じる収入は窮民救助に充当し、残余金は基金に編入する。基本金収支額は毎翌年度に村内に告示するなどであった。