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中山町誌

三、 児童・母子福祉

 第二次大戦後の混乱と虚脱の中で、昭和二二年(一九四七)、児童福祉法が制定された。しかし、当面は戦災孤児・浮浪児・引揚げ孤児の対策を優先せざるを得ず、理想とは程遠い状態であった。そこでアメリカのような児童憲章を制定して、広く社会全般として児童福祉に対する責任を宣言しようということになった。そして、委員会が設けられ、討議を重ねた結果、昭和二六年(一九五一)児童憲章が宣言された。
 この児童憲章は、前文と一二ヶ条の本文から成り、「日本国憲法の精神に従い」「児童は、人として尊ばれ」「児童は、社会の一員として重んぜられ」「児童は、よい環境の中で育てられる」と謳っている。親や国・地方公共団体だけでなく、われわれ日本国民すべてが、児童を心身ともに健やかに育成して、理念を達成する責任を負うことになった。
○ 児童扶養手当 昭和三七年一月施行
○ 特別児童扶養手当 昭和三九年七月施行
○ 児童手当 昭和四七年七月施行
○ 重度心身障害児(者)福祉手当 昭和四四年四月施行
○ 零歳児医療費助成 昭和四八年四月施行
○ 母子家庭医療費助成 昭和四九年一〇月施行

 中山保育所(園)  
 旧中山町時代(昭和二六年当時)、中山婦人会長故山本クニヱは、町内の若い母親から「安心して託せる保育園がほしい」という声を聞き、後に第二代園長になった故仙波雅子と協力して、寄付金を募り、青年団員・婦人会員の奉仕と協力により中山町門前(現中山中学校体育館)に施設を整備した。
 五〇人の児童と三人の職員をもって、婦人会運営の中山母子園(初代園長山本クニヱ)を開設し保育事業を開始した。翌二七年二月町営となり、定員七三名をもって再発足した。その後、児童の増加と施設の老朽化により、昭和三四年一二月二五日福元区(元隔離病舎跡現在地)へ新築(建坪一二三坪)し、中山保育園として事業を継続した。さらに昭和三六年管理人室(七・五坪)を増築し、園児の増加に伴い昭和三九年四月定員一〇〇名とした。以来核家族化の進行、夫婦共稼ぎの増加により保育に欠ける乳幼児が増加し、昭和四三年度には二部屋を増築し定員を一四〇名としたが、四五年以降少子化の傾向にあり昭和五一年度より定員を一二〇名とした。更に平成六年度より定数九〇名とし、施設の老朽化のため平成六年度事業として現在地へ改築した。概要は、表4―6のとおりである。
 中山保育園歴代園長
 初 代  山 本 クニヱ  昭和二六年
 二 代  仙 波 雅 子  昭和二七年~四五年
 三 代  宮 内 ミウラ  昭和四六年~五五年
 四 代  宮 内 輝 子  昭和五六年~平成元年
 五 代  正 岡 保 雄  平成二年
 六 代  神 岡 節 子  平成三年
 七 代  西 村 啓 子  平成四年~現在

 佐礼谷保育所  
 佐礼谷保育所の前身は、昭和三四年五月季節保育所として出発し、春秋の農繁期において誓明寺を借りて二〇日程度実施していたが、常設保育所設置の強い要望があり、昭和三九年一〇月一日から、佐礼谷小学校校舎を借りて定員四〇名のへき地保育所として発足した。
 昭和五二年定員三〇名の小規模保育所として坪之内へ新築して現在に至っている。

 野中へき地保育所
 野中地域関係者の要望により、昭和四五年度から定員二五名、職員二名をもって野中へき地保育所を開設した。以来一一年間保育が行われたが、野中幼稚園の創立にともない、昭和五六年度をもって廃止された。

表4-5 中山保育所の保育状況 (中山保育園)

表4-5 中山保育所の保育状況 (中山保育園)


表4-6 中山町立中山保育園園舎改築整備事業概要

表4-6 中山町立中山保育園園舎改築整備事業概要


図4-1 中山保育園平面図

図4-1 中山保育園平面図


表4-7 佐礼谷保育所保育状況

表4-7 佐礼谷保育所保育状況