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中山町誌

第一節 衛生行政

 わが国の衛生行政が軌道にのりだしたのは、明治五年(一八七二)、文部省に設けられた医務課が翌年医務局となり、続いて明治七年医制が発布されるに至ってからである。明治維新によって文明開化の時代がやってきた。文明と共にやっかいなものも必然的に入ってきた。コレラ・ペスト・天然痘などの外来伝染病である。明治一〇年・一二年・三五年と再三コレラの流行をみている。一方、コレラの流行は、伝染病対策の体制を強化するきっかけとなり、明治一〇年内務省は、「虎列刺(これら)予防心得」を定めた。これは、後年の伝染病予防の先駆というべきものである。
 明治一二年内務省に中央衛生会が設けられ、また各府県に地方衛生会、及び衛生課が設けられ、各町村に衛生委員が置かれるようになった(本町に、明治四三年頃部落単位の衛生組合存置の記録あり)。
 当時の衛生行政は、取締的色彩が強く、内務行政の一環として経過したのであったが、地方行政としても、明治二六年(一八九三)以降は、その所管が内務部から警察部に移り、第二次世界大戦の終末に至るまで、長く警察行政の一部として推移したのである。
 大正から昭和初期における衛生行政の特色は、明治時代の急性伝染病を対象とした行政から、さらに進んで慢性疾患の予防へと発展していったことである。当時結核予防法、トラホーム予防法など各種の法律が制定されていることはこの間の事情を物語るものである。
 昭和六年(一九三一)満州事変の勃発に伴い、国防力充実の観点から国民体位向上への関心の現れとして、昭和一二年「保健所法」が制定され、健康相談と、健康指導を主として事業を開始した。さらに一三年一月厚生省の発足をみ、わが国の公衆衛生及び社会福祉の発展に一時期を画したのである。
 終戦後特筆されるのは、衛生機構の改革である。即ち従来の取締り本位の行政から指導行政への巨歩を踏みだしたことにある。