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中山町誌

二、 医療制度・医療

 旧佐礼谷村は無医村であった。隣接する中山村・郡中方面から医師の出張により巡回診療したが、医療の不足を補うものとして、昭和八年から一二年頃まで(始期終期は不明)恩賜財団済生会の巡回出張診療が行われていた。施療券を交付されて、無料で医療を受ける資格は赤貧で扶養義務者や隣保で救療することのできない者で少数であった。
 昭和九年度医療救護取扱患者表によると、外来一人二九日間、往診一人四日間、入院一人二三日間となっている。また、昭和一二年四月~一〇月までの記録によると済生会医師出張診療は毎月一日、一一日、二一日の午前中、四月から一〇月までの受診者男子四一名・女子二二名計六三名、済生会医療救護者数は三名、使用金額は六〇円八〇銭であった。
 旧中山町では、大正四年(一九一五)八月大字出渕二番耕地三番地(豊岡一匡)に松井哲男が診療所を開業し、中山村、佐礼谷村の学校医を嘱託されていた。
 しかし、中山村においても医療の機会に恵まれず、医療の必要性を感じた村会議員の提案により、中山村立病院が設置されることになった。

 建議案一号
  一、中山村立病院設置セシ事ヲ建議ス
     理由
 「本村ハ国道五一号線通シ在ルモ大部分ハ坂又山ニテ交通不便ナリ故ニ良医師ノ開業ナス者尠シ若シ不幸ニシテ病痾ニ罹リテハ松山市郡中町内子町方面等へ療養ニ趣カンカ且ツ大患二至りテハ医師ヲ招迎センニモ不得止事情ノ爲メ之等ヲ宥サズ貴重ナル生命ニ関スレバナリ」
 当時開業医は、二名いたが年々患者多発して、十分な治療を受けることができず死者も多く、一部には火葬場の設置を要望する声すらあった。しかし、医療施設が先決との結論に達し、東町区(現古川医院)にあった料理店を買受け、改築して村立病院(初代院長中山通治内科)として、大正一〇年一〇月一日設置開業した。
 当病院の職員並びに使用料等は次のとおりであった。
 職員
  院長一名、副院長一名、医員一名、看護長一名、看護婦三名、事務員一名(村副収入役)となっている。
 使用料(大正一〇年一二月公布)
   一、診察料           三〇銭以上五〇銭以下
   一、長時間臨床料          五円以上一五円以下
   一、丸水散薬       一日分 二五銭以上三〇銭以下
   一、外用薬        一剤  二五銭以上三〇銭以下
   一、頓服薬        一日分 二〇銭以上三〇銭以下
   一、処方箋料       一通 一円五〇銭以上二円以下
   一、診断書料       一通   五〇銭以上一円以下
   一、死亡診断書料     一通   五〇銭以上一円以下
   一、生命保険診査料    一通    三円以上五円以下
   一、生命保険に関する死亡証明料
                一通    二円以上三円以下
   一、入院料        一日   三〇銭以上一円以下
   俸給(月俸)           (大正一一年村会議決)

   院長       副院長     医員     
  二〇〇円以上 一五〇円以上 一〇〇円以上 
  三〇〇円以下 二〇〇円以下 二〇〇円以下 

   看護長     看護婦     附属員
  四〇円以上  二〇円以上  三〇円以下
  六〇円以下  四〇円以下

となっている。
 しかし四ケ年間の経営の結果は、運営困難となり大正一四年(一九二五)九月三〇日で、村立病院を廃止した。ちなみに、大正一三年度特別会計中山村立病院歳入歳出決算書をみると、歳出総額一三、六七〇円三〇銭に対する財源として、一般会計繰入金五、六八六円二五銭となっており、繰入金は収入総額の四二パーセントをしめている。大正一二年の事務報告によると患者数は内科一二七五人、外科四六三人、産婦人科一一八人、眼科八六人、計一、九四二人となっている。
 当時議会は、次のように議決している。

 議案第二二号
  大正一〇年五月一四日村会議決仝年一〇月一日設置セシ中山村立病院大正一四年九月三〇日限り廃止セントス(大正一四年四月一日町制施行)
   「理由」現今ノ侭ニテハ経営困難ノ点アルヲ以テ機械器具ヲ貸与シ一部ノ補助ヲシ町ヨリ條件ヲ付シ現今ノ如ク開業セシメントスルニアリ
         大正一四年九月一五日(同日原案可決)

 村立病院廃止以降は、時の院長古川利三郎が個人経営の意志を表明したので、昭和五年同氏に売り渡し古川医院として現在に至っている。