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中山町誌

第五節 召集 (日中戦争と郷土)

 召集令状の種類
 徴兵適齢期の満二〇歳になると、徴兵検査を受け、その中の身体強健、志操堅固の若者が選ばれ「現役入隊」をし、残りの者は補充要員として入隊せず家に帰された。戦争さえなければ、陸軍で二年間、海軍で三年間の「満期」を勤めれば除隊となり、郷里へ帰って予備役の「在郷軍人」となる。
 平時には、少数の現役兵だけで訓練に励み、有事に備えていればよかったが、いったん戦争となると兵力増強のため「動員令」がかけられ、徴兵検査で幸いにも免れていた補充兵と在郷軍人が集められる。この呼び出し状が、通常の召集令状、正確には「臨時(充員)令状」である。
 兵役の義務は、次のとおりであったから、非常時ともなれば、満四〇歳までは枕を高くして寝ていられないことになる。(図表 兵役の義務 参照)
 この他に、常備・補充のどちらかを終えたものを、第一国民兵、何の役にもつかなかったものを第二国民兵として、国民兵役という最終予備軍があり、いずれも四〇歳を限度としている。
 俗に、召集令状を「赤紙」というが、淡紅色の用紙を使っているのは、充員・臨時・防衛の三令状であり、演習・教育・帰休兵令状は白色用紙、つまり「白紙」であり、この他に防衛待機を命ずる防衛召集令状は、淡青色「青紙」であった。
    (『昭和日本史七 戦争と民衆』暁教育図書より)
 当時は、徴兵と共に馬の徴発があった。軍用馬が最も活躍したのは日露戦争であったといわれているが、日中戦争においても、戦地は悪路が多いため、大砲を引張ったり、弾丸や食糧を背に、兵隊と一緒に働いた軍用馬が沢山いた。銃後においては、その軍用馬の飼料として、乾し草の供出が割当てられていた。旧佐礼谷村では、その状況を次のように報告している(昭一三年事務報告による)。 

 『軍馬飼料トシテ乾草供出ノ委託ヲ受ケタルニヨリ村ハ農会ト協カシ各戸ニ供出スベキ数量ヲ割当テ勧業主任技術員等ヲシテ指導ニアタラシメタルニ一般村民ノ熱意ニヨリ割当数量以上ニ乾草ヲ供出シ之ヲ梱包ニハ青年団ノ援助ヲ受ケナホ吏員一同一致ナシ之ニ当リ遅滞ナク供出ヲ了シタリ』

 また、昭和一五年には、「軍馬資源保護法」の普及徹底の一方法として、国民の啓蒙に着目し、馬政局資源部主唱「財団法人大日本騎道会」により、「軍用馬保護検定検査を見学して」・「馬」・「軍馬」の三つの標題で、全国小学校児童を対象に作文募集が行われた。
 各都道府県一等当選の作文集「馬の綴方」が残されている。中山町旧佐礼谷村安別当福岡ヨシミ(当時佐礼谷小学校尋常科六年生)の入選作「馬」を紹介する。

  馬
        愛媛県伊予郡佐礼谷尋常小学校
             尋六   福 岡  ヨシミ
              (現古川ヨシミ 豊岡一区)

 私の家の馬は軍用馬です。私が四年生の時、お父さんが、召集に行って帰る時に馬をあづかって帰つたのです。
 馬の名は三野と言ひます。年九歳、高さ四尺九寸の小さい栗毛馬です。
 三野が帰った時の姿は、大変やせてゐました。それを見ると、こんなにもやせて居て生きてをられようかと思はれる程でした。今ではよく肥えて大変よくつかへます。それで昨年の九月に「よく肥えている」とおつしやつて県の方から賞状を戴きました。
 三野は朝早くからおきて、ぼろい草を拾って食べてゐます。さうしてお父さんが起きて馬のだやへ行くと三野は喜んで『ふゝんふゝん』と鼻を鳴らしてゐます。おばあさんや私がかつた草を切つては、みにまぜてやると、さもおいしそうに、ごりごりと音を立てゝ食べます。私達の御飯がすんでお父さんが追ひ出すと、三野は元気よく出て、荷ぐらをきるのを待っています。今頃は、はいやあぶが沢山出て、三野の体にたかると、三野はしかましさうに、しつぽや口で追つています。
 私が学校へ行く時には、もうお弁当を持つて、お父さんと山へ木をつけに行つてゐます。学校の授業をすまして帰つてみると、まだ山から帰つてゐません。夕方に私がお湯をわかしてまつてゐると、やがて帰つてこられます。お父さんが「お湯がわいとるか」とおつしやつて、わかしたお湯をバケツに汲んで行きます。さうして馬だらひにお湯を入れて馬をつけると、気持よさそうにしつぽをふつて立つてゐます。洗つてすむと、だやの中へおひこみます。すると直にねころびます。
 馬の訓練は一月に一回ずつあります。それは大抵学校の運動場であるのです。いろいろな馬が沢山集つて来ます。この前の訓練日に三野はおらんがとさがしてゐると、お父さんが口もとを持つてやつて来られました。よその馬にくらべると三野はづつと小さいようです。みんなの馬が集つているので、中にはあばれてゐるのもあります。
 雨の降る日は何時もだやの中へ入れてゐるので、たいくつなのか、人声がしたり、足音がすると、肢で前がきをしたり、壁や板の所などをけずるので「ぐわたんぐわたん」と音がすると、お父さん達は「又大工さんが始まった」と言って笑っておられます。
 三野は軍用馬であるから大事にして背中をはがしたりしてはならないのです。これからも一層肥やして立派な馬にしてお返ししたいものだと思つて居ります。』

 昭和一二年一二月、日本軍の南京占領の報道に、中山町では大勝利の旗行列。夜は提灯行列を行い、戦勝祝賀行事が盛大に行われた。
 一方、銃後の婦人たちは、戦場の出征軍人に対し、戦勝祈願と無事帰還を願って慰問袋作りに励み、また、慰問袋に入れる千人針作りが盛んに行われた。

 『千人針~親しい人を戦場に送ることになった時、女たちは千人の女の思いを込めて、千人針を作ることで、死地におもむかなければならない男たちの身を守ろうとした。
 さらし木綿を二つ折りにして、千の印をつけ、その一つひとつを赤い木綿糸で、一人の女から始め千人の女に結んでもらうものである。糸を結ぶ時、五銭玉を付けて結ぶこともあった。ごろ合せにすぎないが、死線(四銭)を越えての意をもたせるためである。
 誰もが、千人針で命が守れるとは思っていなかったが、ただ、無事であってほしいと祈る心を込めたのが、女たちの作る千人針であった。
 死んで帰れと励まして送り出すのが見事な母親であったり、心おきなく、と静かに別れるのが妻の鑑とされた「日本の母」や「日本の妻」の表にだせない祈りの表現として、千人針は考え出されたものではなかったではなかろうか。はじめは、寅年生まれの女千人の手で作ったのが千人針であったという。寅は「千里を走って、千里を戻る」といわれる伝説によるものだそうだが、ともあれあの当時のあわれな悲しい女たちのの心の表現が千人針であった』
    (『昭和日本史3「日中戦争」』暁教育図書)

 この頃、国内では準戦時体制から本格的な戦時体制へと移行し、政治・経済・社会・文化の諸施策の全てが戦争遂行のために動員されるようになった。戦時体制への再編成はさらに拍車がかかり、国防と戦争遂行のために人的・物的資源を総動員することを目的として、昭和一三年「国家総動員法」が公布された。国民はそのため全ての場面で耐乏生活を余儀なくされた。
 中国大陸における日中戦争は、いつ果てるとも知れず、やがて行き詰まりの状態になった。軍はその打開策として、さらに大陸の兵力を増強したが、その一環として昭和一三年九月、第一一師団も満州東部国境に派遣されることになった。歩兵第二二連隊は、一〇月七日、坂出港を出港して渡満し、密山県密山付近に駐留、ソ満国境の警備任務についた。
 昭和一四年(一九三九)五月、在満兵団の改編が行われ、歩兵第二二連隊は新たに編成された第二四師団の隷下に移された。これ以降県下の若者による第二二連隊への人員補充は行われなくなり、幹部を除いて、同連隊の郷土部隊としての色彩は次第に薄れていった。
 昭和一四年八月、欠けた第一一師団の後を埋めて四国管区に第四〇師団(兵団符号・鯨)が創設された。このうち歩兵第二三四連隊(連隊長・重松 潔大佐)は松山で編成になり、その兵員構成はほとんど県人で占められた。師団は一〇月には早くも中国に派遣となり、揚子江を遡上して武昌付近に上陸、同地一帯の作戦に従事した。
 昭和一五年八月には、さらにその欠けた跡を埋めて四国管区に第五五師団(兵団符号・楯、後に壮)が創設された。この時は松山での編成は行われなかったが、県人で特科部隊(駄・砲・工・輜重・その他の兵科)に入隊する者も多かった。師団は南方作戦に充てられる予定で、その訓練に邁進した。
 昭和一六年一月には、松山で歩兵第一二二連隊(連隊長・渡辺祐之介大佐)が創設された。この連隊は占領地警備を目的としたもので、編成完了後は密かに台湾に移駐し、熱帯地域の戦闘訓練に精進した。

兵役の義務

兵役の義務