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中山町誌

第九節 戦争犠牲者の援護

 終戦によって、日本は連合軍の占領下に入り、軍隊は解除された。昭和二二年(一九四七)五月三日、日本の非武装を定めた新憲法が施行され、日本は戦争を放棄した。
 さて、日清・日露戦争をはじめ、満州事変から太平洋戦争までいわゆる一五年戦役において、中山町からも多くの戦没者を出した。
 後に残された遺族は、英霊の供養やお互いに慰め励まし合うために、昭和二二年遺族同盟を結成した(中山町は昭和二三年初代会長奥田源一郎、佐礼谷村は二四年初代会長松浦義雄)。
 戦後、青年団は、連合軍の占領下にあった頃から戦没者慰霊祭を催し、英霊の供養を行い遺族を慰めていた。しかし、昭和二六年八月平和条約の調印によって、翌二七年から、町主催の戦没者(慰霊祭)追悼式が行われることになった。
 国においては、昭和二七年八月「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を制定し、遺族年金・戦没者の妻に対する特別給付金・戦没者の遺族に対する特別弔慰金・戦没者父母に対する特別給付金等を支給するようになった。

 中山町遺族会
 昭和三〇年(一九五五)二月、中山町、佐礼谷村の町村合併が行われたため、同年中山・佐礼谷遺族会が統合し中山町遺族会が発足した。初代会長には西岡進が就任した。戦没者英霊の尉霊顕彰・戦没者遺族の福祉増進等の活動を助成するため、中山町は、会の運営費に対して補助金を交付している。
 昭和三五年(一九六〇)五月には、終戦により倒されていた紅葉谷の日露戦役戦捷記念碑を、遺族会(当時の会長宮岡唯市)の手によって、有志寄付金をもとに再建した。
 遺族会歴代会長
 初代 西岡 進、二代 宮岡唯市、三代 山本寅太郎、四代 亀井正哲、五代 宮岡唯市、六代 阿部 新、七代 山下定夫、八代 松浦義雄、九代 金本幸盛

 中山町忠霊塔の建設
 佐礼谷村においては、昭和三年に佐礼谷三島神社境内に忠魂碑を建立したが、昭和四四年結成された中山郷友会(会長西本東)の事業として、翌年五月永田森三島神社境内に、英霊の慰霊顕彰を行うため、忠霊塔を建立した。鉄筋コンクリート造りで、塔の高さ一二・五メートル、内部は町内の英霊三一一柱が合祀されている。
 町は、毎年春四月忠霊塔前において、戦没者追悼の式典を行っている。塔背の銘板には次のように記されている。

 「日清、日露戦争から太平洋戦争に至る諸戦役において、祖国のため、同胞のため、春秋に富む身をもって散華された方々の英霊を、ふるさとの山野に囲まれたこのみやしろの森におまつりし、その忠誠を永遠にたたえるため、中山郷友会の発起により、町補助金、各種団体および部落寄附金を建設資金としわれわれ町民の総意によって忠霊塔を建立したものである。
  昭和四五年五月二七日
     中  山  町
      中 山 郷 友 会 」

 町内における慰霊塔・記念碑
<場所>    <慰霊塔記念碑> <揮毫者>    <建設年月日建設者> 
永木三島神社  征清從軍記念碑  寺井哲心        明治二九年

永木三島神社  征露大勝記念碑  今川          明治三九年

紅葉谷       戦捷記念     陸軍大将        明治四〇年(推定)
                      乃木希典        中山村在郷軍人会

佐礼谷三島神社 忠魂碑      陸軍大将        昭和三年一一月
                      秋山好古

佐礼谷三島神社 黎明       愛媛県知事       昭和六〇年七月 
                      白石 春樹       佐礼谷郷友会

永田三島神社  忠霊塔                  昭和四五年五月
                                 中山町中山郷友会