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中山町誌

八、 新農山漁村建設総合対策事業の実施

 昭和三一年四月六日の閣議決定による「新農山漁村建設総合対策要網」によると、「農山漁民の自由な総意に基づく適地適産を基調とした農山漁村の振興に関する計画の樹立及び事業の実施を総合的に推進することにより、農林漁業経営の安定と農山漁民の生活水準の向上を図ることは、現下の急務であると認められる。
 このため、政府は差し当たり昭和三一年を初年度とし、概ね五ヶ年を目途として、次により新農山漁村建設総合対策を講ずる」ことを方針とした。
 敗戦による国土の荒廃は極端な食糧不足を来し、農業の目標は専ら食糧の増産に指向せられていたが、戦後も一〇余年を経過するとようやく国民生活も安定して食糧品の消費動向に変遷の様子がみえ始めた。さらに農業を除く他産業の高度の成長によって、ひとり農林漁業のみが取り残される傾向が強くなって来た。
 また、戦中、戦後に急増した農山漁村人口の都会への還流が意外に進まず、農林漁家の二、三男対策が大きな社会問題として、クローズアップされて来た。
 このため政府としては、閣議決定に基づき「農林漁業の生産性の向上を図り他の産業部門と均衡のとれた発展を促進するため、農民の自由な意志による適地適産を奨励し、基幹的な施設の整備を強力に推進することによりコストの引下げを図り、多角経営による余剰労働力の消化」を目途として、新農漁村建設総合対策事業いわゆる新農村建設事業を計画したものである。
 本町としても、昭和三二年度より国の指定を受けて事業を開始し、この頃より麦、雑穀に代わる作物として、そ菜、果樹(特にかんきつ類)が急速に導入されてきたものである。
 なお、新農村建設事業として実施した補助事業は表1-19のとおりである。

表1-19 新農村建設事業昭和32年度実績表

表1-19 新農村建設事業昭和32年度実績表