データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

二、 旧佐礼谷村

 1 産業組合時代

 創設
 産業組合法制定以来、その設立が時代の趨勢となったにも拘らず、佐礼谷村では容易にその機が熟さなかった。そのため、県より再三にわたる勧告もあって、当時県の係官として在任中の中山町森平茂左衛の指導を受け、役場勧業係金岡駒猿が設立準備の任に当たった。そしてようやく大正一二年二月二〇日、有限責任佐礼谷村信用購買販売組合が発足の運びとなったのである(組合員一〇九名)。
 初代組合長に松本万蔵、理事に久保田丑五郎・船田団蔵・上岡熊太郎・金岡駒猿、監事に飛田熊吉・篠崎寅吉・藤本亀吉がそれぞれ就任した。

 初期
 設立当初は信用事業のみを行い、金岡専務は役場吏員と兼務、その給料は役場から支給されるという実状であった。
 大正一四年、購買・販売事業を開始するについて、賛否両論に分かれたが、再三審議の結果、実施に踏み切り、元役場支所(現住宅)の位置に事務所を設けて職員二名を増員配置し、その給料は購買益金から出すことにした。ところが、さて事業を始めてみると、その利益度が意外に高く、年度決算において一、〇〇〇円(現在の貨幣価値に換算して一、〇〇〇万円近い)の剰余金を挙げ、かなりの反響を呼んだ。
 しかし、間もなく襲ってきた世界経済恐慌の嵐に、組合経営は木の葉の如くに翻弄されて大打撃を蒙った。即ち、貸し付けは増大固定化して動きがとれなくなると共に、預貯金と貸付金とがほとんど同額のため、貯金払戻停止寸前の憂慮すべき事態を招いた。
 そこで人心刷新の意味から、昭和五年、設立以来の数々の功績を残して金岡専務が退任、代わって船田団蔵の新専務登場となった。

 整理期
 かかる非常事態に直面した久保田丑五郎組合長・船田専務は、協議の末秘かに役員に諮り、郡中の個人商人よりの借入金五、〇〇〇円を貯金として受け入れて急場をしのぐなど、その苦心には並々ならぬものがあった。また、これと並行して、鋭意不良債権の整理に努め、堅実な運営に万全を期した結果、満州事変を境として好転を始め、組合員の心配は全くなくなり信頼を取り返すことが出来たのである。

 発展期
 経営安定化の見通しの下に事業の拡大を行うことになり、まず昭和九年、米麦・雑穀類の受託販売を始めた。当時の販売手数量一俵に付一銭は、現在の貨幣価値からみて隔世の感がある。続いて昭和一一年、長成に工場を建設して加工利用事業を開始するなど、経営は順調に発展していった。

 太平洋戦争前後
 昭和一五年、当時村農会技術員松本和雄の計画立案が実を結んで、佐礼谷村が経済更生特別村の指定を受けたのを機会に、経営内容を充実して、村政に側面から協力するため、新たに新事務所(現在の農協支所)を建設した。さらに、その後の経済統制の強化に伴い、供出ないし配給業務の必要から、昭和一八年農業倉庫の落成をみた。

 2 農業会時代

 戦局が熾烈となった昭和一九年二月、二七年政令に基づいて産業組合を解散、代わって佐礼谷村農業会が設立となったが、当時としては当然の推移といえよう。
 運営責任者のメンバーは、会長篠崎重通、副会長船田団蔵その他で構成された。
 やがて敗戦を迎え、戦時中の遺物的存在となった農業会から脱皮して、民主主義国家日本の名にふさわしい機構の確立が期待されていた中、篠崎会長の公職追放という不測の事態が偶発した。そのため、昭和二二年一月以降、桜木寛一郎が残任期間を務め、同年三月一七日河内義輝の会長就任となった。

 3 農業協同組合時代

 発足
 農業協同組合法制定以降の時代の動きと共に、組合員の自覚が次第に高まり、昭和二三年二月二日、農業会を解散し、初代組合長桜木寛一郎、副組合長久保田輝二郎、専務松本和雄の役員構成で、佐礼谷農業協同組合が新生の第一歩を踏み出していった。
 初期発足以来業運に恵まれ、昭和二四年には自動車部を設置、大型車を購入して木炭・青果物等の本格的販売事業を昭和二六年には婦人部の要請に応え、亀岡圀光常務担任で製菓事業を開始した。
 この間、河内睦男・久保田輝市郎と組合長の交替があったが、この頃から営農指導が実を結んで、農事研究同志会などのグループ活動が活発となり、蔬菜・果樹・園芸を導入して今日の基礎を築いた。一方、和牛の肥育熱が日を追って高まり、一時は郡内届指の肉牛産地として名声を高めるまでになった。現状を省みる時、全く昔日の感に堪えないところである。

 混乱期
 営々として築いてきた発展の喜びも、昭和二九年頃から不安・動揺へと転ずるようになった。即ち、経済変動に加えて自動車事故の瀕発、職員の相つぐ転退職による事務整理の滞り、不良債権の蓄積、組合員の利用度低下等の悪条件の累増がそれである。これに対して、職員三名の減員を含む業務刷新を行って事態収拾に乗り出した折も折、久保田組合長に不慮の事故が発生した。急遽、上岡茂雄が組合長代理となり、松本専務を中軸に、役職員一丸となった立て直しに懸命の努力を続けたが、如何ともし難く、業勢は悪化する一方であった。遂に昭和三一年四月役員改選を行い、各地区から一名宛選出された代表者と、役員中の三名をもって再建委員会を構成し、徹底的に整理に当たることになった。しかし、整理の結果回収不能の金額が過大で、自力による再建の見通しが困難であるとの結論に到達、ために昭和三一年一〇月三一日、整備特別措置法の適用を受け、五ヶ年計画で赤字解消に着手したのである。組合長松本和雄、専務亀井正哲が整理に当たった。
 昭和三二年再建の目途がつくと、松本組合長以下が総辞職し、組合長平井寅雄、専務中岡光芳、理事亀岡進・西岡実尾・岡村武雄・上田信太郎、監事金岡駒猿・亀岡武重・竹岡善忠の新陣容で、ひたむきな努力が続けられた。組合員も非常事態を十分認識して積極的に協力した結果、出資金・預貯金も増加して、ようやく愁眉を開くようになった。

 中山農協との合併
 再建整備が着々と進められていた昭和三四年頃に中山農協との合併の議が起こった。そこで昭和三五年度部落座談会で賛否を問い、その意向を体して、三六年三月一二日、臨時総会を開催、合併承認の決議を行った。受入れ側中山農協の理事者及び組合員の寛大な理解の下に、順調に事が運び、同年五月三日、県下に先がけて合併が行われ、ここに佐礼谷農協史の幕が閉ざされたわけである。
 なお合併当時の役員は組合長平井寅雄、専務中岡光芳であった。
 昭和四二年に、組合長である西岡進が中山町長に就任、新組合長に当時専務の松本吉兼、専務田中利男、常務平井寅雄が選任される。
 以来、昭和四〇年代には、栗・みかん・葉たばこ・畜産を中心に、中山町農業の最盛期を迎えることとなる。
 昭和四八年、栗の新撰果場建築(現撰果場)、引き続き、新加工場建築で現在の泉町に、栗を中心とした、農産物物流加工総合コンビナートが完成し、現在の営農センター・加工場となる。