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中山町誌

一、 林業の源

 本県における往古の林業に関する記録はほとんどなく、古代は人口が稀薄で、林産物の需要量も少なく、農耕地として開墾される以外の森林は、木材その他の林産物を必要に応じて採取するのみで、多くは原生林の様相を呈していたものと思われる。
 徳川時代に至って、ようやく各藩に林政が備ってきた。当時林野の所属は各藩によって名称は違うが、大別して御林山・百姓持山・入会山の三種に分けられていた。

 御林山
 藩の領有に属し、主材木に対しては平素ほとんど禁伐の取り扱いをなし、その一部分を請負山と称して地元部落に委託して、林産物の一部を給付し、礼銭を上納させていた。

 百姓持山
 藩政時代を通じて、林野所有権の成長は、封建的領有権によって妨げられていたが、例外的にいくらかの私的経営林は古くから認められ、その内容は設定の事情に応じて様々であった。多くは、屋敷地・田畑などに付属して、個人の支配が認められたもので、屋敷林・田添・畑添などと呼ばれていた。そして時が経つにつれ個人の使用権が強くなり、百姓林・百姓持山林などと呼ばれるに至り、後に私有林と呼ばれるものになった。

 入会山
 農村の共有に属し、明治維新後は、部落有林野となり、公有林の一種となった。これらの林地は、農地と同じく、領主が土地の底土権を有し、農民またはその集団である郷村が、その表土権を持ったものと考えられる。
 藩政の末期に至って、御林山の一部である請負山は、地元部落に下げ渡され、御引渡山となるものがあり、入会山は藩許を得て、地元部落に分割され、林野の状態も次第に旧慣を脱するに至った。