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中山町誌

一一、 木炭

 木炭は、ひと昔前までは家庭用の燃料として薪と共に重要なものであり、また鍛冶用などの用途も多かった。
 自給用の木炭生産は各地で古くから行われていたが、商業用の木炭生産が盛んになったのは、江戸・大阪の大消費地が出現し、各地に城下町の形成された近世以降である。
 愛媛県内で木炭生産地として発展したのは、まず南・北宇和郡であった。この地域は藩制時代に藩直営の製炭業が行われており、明治以降も県内随一の製炭地として発展した。
 ついで東予銅山川流域では、銅山開発と結合した製錬用木炭の生産が盛んであった。
 肱川流域は明治末期から大正年間にかけて製炭業が盛んになるが、それ以前はクヌギの薪材の生産が多い地方であった。
 愛媛県統計書によると(表2-13)明治三七年における本県の木炭生産量は四四八万四、〇〇〇貫でそのうち南・北宇和郡が約四七パーセント、喜多郡が三・二パーセント、伊予郡は二・九パーセントであった。
 中山町の木炭生産は、明治末期の郷土誌によると、明治四二年の中山村林業総生産額三万六、九五〇円の内、薪が二万円、木炭三、四〇〇円とある。佐礼谷村の林業総生産額七、五四九円の内、薪その他で二九五円とあり、木炭の項は設けられていない。このことからも本町の木炭生産が盛んになったのは大正期以降と思われる。
 特に明治四三年、内子町の薪炭商越智良一はクヌギの切炭を生産し京阪神に出荷して「伊予切炭」の名声を全国に轟かせたといわれ、中山町でも切炭技術の普及と共に隣町の影響を受けて生産量が一段と増大していった。
 明治四四年頃、立川村横平の二宮隆五郎が永木の地で初めて炭窯を築き、城戸庄五郎(七代)が天井に口穴をあけて天井木を焼くことを工夫したと伝えられている。
 中山村の統計台帳によると大正一三年の木炭生産量は一三万五、〇〇〇貫、三、七八〇円であったものが、昭和三年には一八万貫、四万五、〇〇〇円に増加し、さらに昭和八年には五五万二〇〇貫、九万九、〇三六円に増加、郡内有数の生産地となった。
 県においては木炭生産を奨励し、大正一五年に林業共同施設補助金下付規則を制定して木炭倉庫の共同設置を推進すると共に品質の改善と加工技術の向上を指導しつつあった。その上に木炭規格統一による有利販売を目的として昭和七年九月木炭検査規則を公布し、同年一〇月一日から県下一斉に木炭の生産検査を実施し品質規格の統一を図ることとした。その後昭和一五年に至って、国が全国統一規格制度を実施したことに伴ない、この制度は廃止され特産の切炭生産は中止された。
 本町での木炭倉庫整備は、まず産業組合が昭和一〇年頃設置し、木炭の共同販売を進めていった外、木炭生産地区はそれぞれ県道端に共同して木炭倉庫の設置を行った。
 木炭検査は倉庫ごとに検査日が定められ、予め申請書を提出しておいたものについて、組合に駐在する木炭検査員によって検査を実施し、検査済の付箋をつけて出荷された。また当時炭俵の蓋に用いられた「さん俵」は高岡区松本小平の考案によるものと伝えられている。
 販売は、産業組合による共同販売と個人薪炭業者によって取扱われた。大正一一年(一九二二)における業者は、組合一、個人業者六とあり、組合と、いわゆる炭問屋といわれた大きい倉庫を有する個人業者が競って阪神方面へ販売していた。昭和七年当時の木炭一俵当り産地価格平均は、黒炭クヌギ切込上で一円二銭、黒炭雑小丸八五銭程度であった。
 戦中戦後を通じて伊予郡内有数の木炭生産地であった本町も、燃料革命のあおりを受けて昭和三〇年代には衰退に向かうこととなる。
 中山町の木炭生産は昭和一九年の製炭従事者数二一七戸三七四人から昭和三二年における生産者数四四〇人、生産量一、四四一トン(一五キログラム一俵で九万六、○六六俵)をピークにその後急減し、四五年には生産者数七四人、生産量三九九トン(一二キログラム一俵で三万三、二五〇俵)となった。
 製炭業は全県的に衰退するが、その中でクヌギ林の有効利用が問題とされた。一部クヌギ林については昭和四○年頃からスギ・ヒノキの針葉樹林に転換されたが、一方において四〇年代からシイタケ栽培が隆盛に向かうにつれシイタケ原木に転換されたものが多い。製炭業者自身もシイタケ栽培に転換していったものが多い。
 現在製炭業者は三人~五人程度で、お茶会用の切炭を生産している程度である。又最近栃谷区岡田正雄等によって竹炭の製造が試みられているが生産量はわずかである。
 木炭価格の変遷を旧町誌等から転記すると表2-14のとおりである。

表2-13 地区別の木炭生産量の推移

表2-13 地区別の木炭生産量の推移


表2-14 木炭価格の変遷

表2-14 木炭価格の変遷