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中山町誌

一二、 特用林産物

 しいたけ生産の沿革
 本県におけるしいたけ生産は、昭和の初期に九州大分県から経験者を招いて指導を仰ぎ、主として西宇和郡方面で栽培を始めたものと思われる。もちろん、藩制時代から明治・大正と杣人達が山に入り自然発生のしいたけを採取して食用していたことは充分想像されるが、しいたけに適した原木を適期に切って栽培を始めたのは昭和の初期である。この時代は天然栽培で雌雄別々の胞子が、空中に飛散し原木の鉈目に落ちるのを待つために、まず原木を胞子が飛んできそうな所へ置き、傘木を厚く掛けて、胞子を含んだ風の速力を弱め、原木の上に落下させるような工夫をした。これが蛇目式という栽培方法で、非常にむずかしく、秘伝があるとまでいわれた。
 昭和一〇年代になると、国立林業試験場で培養菌糸による種菌が発見された。愛媛山林会では発見者の北島博士を久万町・野村町に招き講習会を行った。
 その後、昭和二三年鳥取県の椎名教授による人工培養した駒木による埋榾栽培と、一方関東で有名な森喜作の鋸屑種菌による培養菌が広く本県に流入した。

 中山のしいたけ生産
 永木区、東末広によると、永木の城戸庄五郎(七代)は昭和の初期しいだけを採取して糸に通して干し、法事などに料理用として使用し珍味としていたという。このしいたけが鉈目式栽培によるものであったという。
 昭和二〇年代になると隣村立川村の篤林家上岡岩雄が熱心にしいたけ栽培に取り組んでおり、本町の中にも興味を示す林家がいて自家用程度に栽培していた。
 本格的にしいたけ栽培に取り組んだのは、昭和三〇年(一九五五)永木の城戸庄五郎(九代)が、当時の全国椎茸普及会((財)日本きのこセンター)の馬屋原指導員の指導を受け植菌を行ったのが初めとされる。翌三一年には、東末広や、宮田喜左衛も栽培に取り組みを始めた。県においては、昭和二七年林務課の指導で椎茸農協を設立したが経営はうまくいかず、時は流れて昭和三五年木炭生産の斜陽化に伴ない、本県におけるしいだけ産業振興の必要性を洞察した県森林組合連合会が本格的に振興に取組むことを決定した。昭和三六年に市売りを開催、昭和三八年には県しいたけ生産販売協議会を組織し、生産技術研修会などを行っている。城戸庄五郎は昭和三二年新農山漁村建設総合対策事業の適用を受け中山で初めてA型しいたけ乾燥機という、薪を燃料とする乾燥機を永木地区に共同設置(事業費三〇万円)して乾燥し、直接市場へ送って販売していた(城戸庄五郎談)。この頃になると影之浦の石岡義一なども、しいたけ栽培に取り組んでいる。
 中山森林組合では、昭和三五年頃から本格的に生産指導と販売に取組み、同三八年には中山地区七六人、佐礼谷地区二一人が五〇八立方メートルの榾木に伏込みを行った。
 同三九年の生産量一、六〇〇キログラム、生産額は二三五万円であった。
 しいたけの需要は、食生活の向上と多様化によって増大していった。中山町のしいたけ生産は豊富な原木資源に恵まれ、森林組合の熱心な指導によって飛躍的な上昇をしていった。
 森林組合では昭和四五年に、しいたけ作業所を建築して共販体制を整備すると共に、しいたけ乾燥機の共同設置をする一方、当時の出本悟専務・泉清子主任らが県内森林組合で初めて共同撰別制度を導入して有利販売を図り、県内有数の生産地といわれるまでに育成した。
 中山町における生産の推移は表2-15のとおりである。

 生しいたけ
 坪井区亀元都明談によると、本町における生しいたけの生産は、昭和四八年西岡茂(栗田出身で松山市在住)が榎峠の廃坑を利用して、生しいたけの周年栽培に取組んだのが始まりだという。
 農協では、規格統一と共販連続出荷を目的として、しいたけ生産林家の指導に取組み会員二二〇人の組織化に成功した。中山町の生しいたけ市場における評価は高く、おりから食生活の簡便化が進む中インスタント食品の開発が急速に広がり、生しいたけも爆発的人気を呼び、年々計画生産量を上廻る出荷量となり、遂に昭和五六年には生産量二八〇トン、生産額三億円を達成した(当時の単位農協当り生産額日本一)。農協ではこれを記念して盛大な祝賀会を開催すると共に、一層の生産増加と品質向上による有利販売戦略を推進することとした。

 菌床しいたけ
 菌床しいたけ栽培法は、昭和四五年頃吉井式栽培法として話題となったが定着せず、昭和五〇年代になってさらに栽培法が研究され、六〇年代には、一部種菌メーカーが普及に乗り出し、企業などで栽培が試みられてきた。菌床とは、榾木にかえて鋸屑種菌に米ヌカ・フスマ等の添加物を加え成型した菌床ブロックで、これを室内等で集中管理してしいたけを栽培するものである。しいたけ生産者の高齢化、適正な林内ホダ場の確保難、良質原木の入手難と価格の高騰もあって近年普及してきた。
 愛媛県経済農業協同組合連合会では、平成五年度本町平村区へしいたけ菌床ブロック生産施設を建設し、年間生産量三〇〇万個(一個重量約三キログラム)で、県内全域を販売エリアとして菌床しいたけ栽培の拡大を計画している。

 たけのこ
 本町の孟宗竹林は、一〇九ヘクタールと県内有数である。たけのこは古来生食用として生産販売されており、大正一一年には二万貫、三、〇〇〇円(貫当り単価一五銭)が生産されている。
 たけのこの生産指導と出荷が本格的に取り組まれるようになったのは、昭和二一年頃農協が農産加工事業を始めてからである。農協はたけのこ生産組合を組織して、良質なたけのこの生産指導を行うと共に、水炊きかんづめに加工し京阪神方面へ販売してきた。
 近年中華風料理の普及や、外食産業の発展と共に需要は増大して農林家の有力な収入源となっている。
 たけのこは町内全域で採取されるが、特に栃谷地区が良質のたけのこ産地とされる。生産量の推移は次表のとおりである。

 特用林産物の課題
 林業就労者の高齢化、近年輸入農林産物の増大に伴なう国内販売価格の長期低迷等によって、生産量は年ごとに減少しつつあり、特用林産物生産も転期を迎えようとしている。

表2-15 しいたけ栽培

表2-15 しいたけ栽培


表2-16 たけのこ生産の推移

表2-16 たけのこ生産の推移