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中山町誌

第五節 鉱業

 四国をほぼ東南にのびる三構造線(北より中央・御荷鉾・仏象の各構造線)が四国の地質を各々特徴のある地帯に分けているが、本町は中央構造線と御荷鉾構造線にはさまれて、地質構造上『長瀞変成岩帯』と呼ばれる地帯上に位置している。
 『長瀞変成岩帯』は、三波川変成岩類を主体とし、他に若干の中新統および石鎚火山岩類から成っている。三波川変成岩類は、秋父古生層が広域変成作用を受けて生成された結晶片岩・千枚岩類と、それらに貫入した塩基性火成岩類より成り、走向はほぼ東西、複雑な褶曲と断層の集積で、全体の厚さは数千メートルと推定される。
 上部層は点紋片岩帯よりなるが、含銅硫化鉄鉱床はまだ知られていない。中部層は全体の厚さ約二、五〇〇メートルで、結晶片岩中に含銅硫化鉄鉱床及び小規模のマンガン鉱床が多く見出され、本町各鉱山もほとんどこれにかかっている。下部層は主に砂岩、黒色千枚岩よりなり、層厚約二、〇〇〇メートル、上部に小規模の含銅硫化鉄鉱床がみられる。石鎚山から砥部町附近まで東西四〇キロメートルの間には、結晶片岩帯の上に中新世の砂岩、頁岩、礫岩、凝灰岩等が堆積し、さらに安山岩類、石英粗面岩、花崗班岩の貫入が見られる。これが石鎚火山岩類と呼ばれるものであり、この石英粗面岩の変質したものが陶石として安別当・雨翅ならびに砥部町に見られるものである。
 鉱業発達史め面からみると、文武天皇二年(六九八)の時代に、伊予の国から白ろう、ろう鉱および朱砂の献上があったと記されており、これが愛媛の鉱産物が文献に見える最初である。前二者は西条市市之川鉱山のアンチモニーであり、後者は北宇和郡日吉産の水銀であろうとされている。
 大宝元年(七〇一)の律令の中には、わが国鉱業法規のはしりともいうべき条項があり、養老二年(七一八)にはとく銅法といって、銅を政府に納めて罪を免れる制度ができて、一種の鉱業奨励制度が体裁を整えられた。この頃出石鉱山が発見されたと伝えられるが、はっきりした史料はない。
 和銅元年(七〇八)に銅銭を鋳造してから歴代の朝廷は常に鋳銭を行ったが、このための銅鉱は伊予からも産し、国司がその監督に当たったといわれる。
 中世では、荘園制の発達につれ官行の鉱山は廃止されるようになり、各地の豪族がその富強を図るため、金・銀・銅の採掘に努めたが、中山地方がこれに関係したとは思われない。ちなみにこの時代の技術は頗る幼稚であり、採鉱は溝掘法、ついで堅穴掘法、犬下り掘法が行われ、同製錬は酸化製錬法(真吹法)であったといわれる。
 近世に入り、豊臣秀吉は国内を統一すると、検地に着手し諸国の鉱山を国有としたが、この制度は徳川幕府にも引き継がれた。当時幕府直轄鉱山を御直山、山師に採掘を委任した銅山を自分山または運上山といい、その他特別の場合を除いては、諸国に随意に鉱山を処置させない方針であった。しかし、元禄時代(一六八〇年代)に入ると、国内産業の躍進に伴い幕府や領主の保護政策の下、鉱山の発見、稼行されるものが目立つようになった。
 明治四三年(一九一〇)編纂の『中山村郷土誌』によると「平沢鉱山」の沿革として「当山ノ開掘ハ其年代頗ル古クコレヲ伝説又ハ古老ノ言二徴シ或ハ往昔掘削ノ状態二鑑ミルニ凡ソ二百年乃至三百年ノ星霜ヲ経シモノナランカ」とあり、これが正しいとすれば、本町鉱山稼行のはしりと推定されるが、根拠が乏しい。ただ、幕末において大洲藩主が、かなり積極的に探鉱や稼行を行ったことが『広田村郷土誌』等に散見できる。
 本町鉱業発達史の上でかなり明確な記録があるのは、旧佐礼谷村里正鷹尾吉循が慶応年間(一八六〇年代)寺野鉱山を始めたというのが最初といってよい。ついで同氏はさらに佐礼谷鉱山敷野坑を稼行したが、中山・平沢・宮本の各鉱山もこれに続いたものと思われる。
 明治維新後、政府は富国強兵を目途として殖産興業政策を押し進め、鉱山開発にも欧米技術の採用を決意し、欧米より七・八名の技師を招聘したりしたが、なお当時鉱山に着目するのは一介の篤志家に過ぎなかった。寺野・敷野・平沢の各鉱山で行われた山元製錬では、まず鉱石を焼鉱とし、ついで素吹きによって鋲を造り、さらに真吹きによって粗銅を造る、いわゆる山下吹き(古来行われた真吹法の改良型)が採用されたものと思われるが、この方法では銅七%位までは悪石として捨てられたものである。なお、湧水処理についても、もはや江戸時代の技術では及びもつかない状況になり、採鉱法についても新しい技法が待望された。当時は、廻切法といって、切羽面を小区画にわけて採掘する方法が広く行われている。
 このように、幕末から明治初年にかけて曙を迎えた本町の鉱業は、資本の交替、経営の消長をみながら、日清・日露戦争の時代を迎える。寺野鉱山が最も活況を呈したのは、日清戦争直前であり、日露戦争当時の状況として『佐礼谷村郷土誌』は、「明治三七年の候銅価の暴騰せしに際し試掘請願者続発し多くの鉱山を有するに至れり」として、佐礼谷地区だけで大谷・階上・佐礼谷・越木・宮本・寺野の六鉱山を挙げている。地方の資産家が一獲千金を夢みて、小資本で鉱業に手を出したのも、この頃が最も多かったと思われる。しかし我が国全体の鉱業は外国技術の導入もあって、だいたい明治二〇年頃までに存立の基礎ができ、日清・日露を経て産業資本が確立すると共に、ますます隆盛に向かっていたのである。本町の鉱業に産業資本が進出するのは概ね明治末期のことである。即ちこの時期に明治製錬(株)による二川登鉱山をはじめとして、鉑竜・蒲山・佐礼谷(本坑)等の鉱山が相ついで稼行されたのである。
 大正時代は、明治末期に続いて経営の主体が会社組織となり、中でも財閥系会社が有力となって群小資本家の鉱山を買収し事業の拡張を図っていった。秦鉱山は大正初期に、矢野鉱業が稼行した。第一次世界大戦は鉱山界にも未曾有の活況をもたらし、再び群小鉱山が稼行されたが、戦後の不況により、またも有力会社の支配が強化された。またこの頃より電力の拡充につれ、有力鉱山を中心に著しい技術の進歩がみられた。
 昭和の初期以降、世界的大不況の影響を受けて、弱小企業は整理を余儀なくされ、資本の集中が進むと共に、合理化による生産費の低減に努力が傾注されていった。
 満州事変を経て日中戦争が勃発したことにより戦争への方向が決定づけられるようになった。政府は統制を急速に押し進め、鉱業に対しては産金法・重要鉱物増産法等を公布した。
 これに伴い帝国産業㈱・帝国工業開発㈱等の半官半民会社ができ、鉱物増産のための調査・融資・経営を行った。さらに戦争の激化につれ、重要産業団体令・軍需会社法・国民徴用令等を公布し、重要物資の強化増産が企図された。このような戦時対策は、生産力に多少余裕のある昭和一二、三年頃までは奏功したかにみえ、群小鉱山の再興もみられたが、太平洋戦争末期に及んでは却って生産力を低下させ、坑内の荒廃を招来して敗戦を迎えたのである。
 戦後、沈滞し切った鉱業を活気づけたのは、昭和二五年(一九五〇)より同二八年に及ぶ朝鮮動乱の特需景気と、昭和二九年末より翌年にかけての世界的活況であった。中山町の休止鉱山も朝鮮戦争を契機として一斉に業務を始め、昭和二七年には別に栃木鉱山の探鉱が開始された。
 軍需としての銅・硫安工業のための硫化鉄鉱の他に、鉄鉱生産に用するマンガン鉱が、宝産業㈱によって佐礼谷敷野地区で採掘されたのは特記すべきことである。
 しかし、これら諸鉱山も、昭和三〇年(一九五五)を最後として山を閉じていった。
 中山町は、四国の大多数の鉱山を擁する『長瀞変成岩帯』に位置し、東の別子鉱山群、西の三崎半島鉱山群に呼応する一大鉱山群地帯である。本町を中心として砥部町、広田村、伊予市、内子町に及ぶ地域がこれである。幕末より開業された本町諸鉱山からは銅、硫化鉄鉱を主として、金・銀・マンガン・アンチモニー等多種の金属を産してきた。これに加えて、三波川変成岩類と石鎚火山岩類の交接する地帯を含むために約七〇年の間非金属鉱床として、安別当や雨翅地区の陶石を擁して来たのである。銅・硫化鉄鉱の埋蔵予想を鉑竜、二川登、中山、宮本の四鉱山だけについてみても一四万三、〇〇〇tに及ぶのである。
 しかし、本町は地形錯雑し、地層の継続もまた変転きわまりない。鉱床もこれがため寸断され、採算上常時稼行されないのが一大欠点であり、わずかに寺野鉱山のみ前後八〇年の稼行の歴史と、明治二五年・六年を頂点とした別子鉱山をしのぐ程の景気を今に伝えるばかりである。
 表3-6は、四国通商産業局に登録されている本町関係鉱区の状況である。

表3-6 中山町鉱区一覧表

表3-6 中山町鉱区一覧表