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中山町誌

第六節 鉱石搬出

 鉱山が主として山間僻陬の地にある以上、鉱産物の搬出については種々の配意がなされた。しかも本町が過去のある時期において、大瀬熊之滝鉱山並びに広田鉱山の鉱石搬出に重要な役割を果たしたのである。
 明治四二年(一九〇九)、藤野亀之助は大瀬鉱山㈱を創立、鉱石搬出を架空索道によることとして、山越しに出淵までの索道を架設し、それから郡中港までは馬車によることとした。
 大正三年(一九一四)五月、久原鉱業㈱が同鉱山を買収稼行することになったが、当時、政治家であり実業家でもあった井上要は、これに呼応して伊予索道㈱を作り、出淵までしかなかった索道を、佐礼谷を経て、郡中港まで延長し、大瀬鉱山の鉱石搬出を一手に引き受けたのである。
 この索道稼行の中心は佐礼谷日浦にあり、六〇馬カガスエンジン一基が唸り始めると、鉱石を積んだバケツは延々と山を越え谷を渡って郡中港に向かい、一方空になったバケツはまた延々として山元に向かったのである。大正四年大瀬鉱山が富鉱部についた時などは、昼夜兼行の稼行も行われたが、常時二〇名程度の地元民が雇用されて作業に当った。大正九年(一九二〇)一一月に大瀬鉱山が休山するまで、この索道は二四万トンに及ぶ鉱石を搬出したのである。
 大正八年四月、久原鉱業㈱は大瀬鉱山に隣接する広田鉱山の稼行に参加したが、不要となった索道をも買収し、大瀬~日浦間の路線を、広田~日浦間に変更、やはり日浦を中心とする索道による搬出を行った。
 広田鉱山は昭和五年(一九三〇)九月鉱況不良のため休山したが、この間索道の搬出量は鉱石約一八〇万トンに及んだ。
 このように、本町は町内鉱山の鉱石搬出の他に、大正年間を中心として約二〇年間、他地方の鉱山稼行(鉱石搬出)に対しても重要な役目を果たしてきたのである。