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中山町誌

一、 古代から近世までの交通・運輸

 官道
 律令体制下においては、都と地方国府を結ぶ官道(駅路)が、全国的な規模で整備され、それぞれに三〇里(後世の約四里=約一六キロ)を基準として駅家が設置された。
 このうち四国地方の駅路はしばしば変遷を繰り返し、「延喜式・諸国駅伝馬」に「伊予国駅馬・大岡・山背・近井・新居・周敷・越智各五疋」とあり、伊予国内に六駅を設け、伊予国を走る南海道各駅ごとに五頭の馬を置くことを定め、駅戸数もほぼそれと同数であったとみられている。
 中山町の交通発展の過程は、歴史的にみると二つに区分される。まず、江戸時代以前を第一期として、永木地区が中山で一番栄えていた頃、交通は、大洲・新谷・内子・論田・千部坂・野間津・下立山の願者道、横平を経て中山村内の福住に入り、永木の茶堂(三島神社前)・重藤・柚之木・福元・高岡・一之瀬・長沢・犬寄・小手谷を通って大平に出ていた。また、これとは別に、高岡・横山・栃谷・影之浦・栗田・雨翅を経て松山に通ずる近道があり、村では、前者を「オオテンマツ」、後者を「コテンマツ」と呼んでいた。
 第二期は江戸時代に入ってからであり、現在の泉町を交通の中心路としていたようで、城下町大洲から替地の郡中に行く旧大洲街道は、江戸時代の中期頃には、ほぼ完成したと考えられる。そして出渕から泉町に入り佐礼谷の榎峠から札場を通り犬寄をぬけて、大平・郡中へ出ていた。
 中山は、この通路の継場となり、宿場町として発展するが、明治期に入って新道が開設され、宿場町としての面影は残しつつも、順次変化発展していくことになる。
 また、この幹線道とは別に、隣村に通じる里道も発達し、広田・小田へは、影之浦から、オオザレ越等によって高市・田渡へ向い、また栗田から鍛冶屋峠を経て玉谷へ出る道、仁川登から境柱を越え中ノ川に通じるもの、海のある上灘へは長沢の灘分れから大栄口に出て海岸へ通じるもの等、近隣の大瀬・石畳・南山崎へそれぞれの峠越えをした里道が通じていた。

 運輸
 古代の運搬具は、未発達文明の中で人力により行われた。人は荷物を肩に担い、背負い、頭上に乗せて運んだ。つた・葛・動物の皮・布製の紐等を利用したり、荷を引きずったりして運んだ。そして農耕によって家畜の飼育を始め、人力から畜力による作業や運搬が行われるようになって、運搬量は人力に比べ大幅に増加すると共に交通域も拡大していった。
 また乗物として駕籠・馬を利用するようになり、駕籠かきの「定」も詳しく決められた。