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中山町誌

二、 近代の交通・運輸

 1 道 路

 国道五六号線
 明治一二年(一八七九)に、愛媛県令岩村高俊は、「国県道路線・海港等仮定」を布達した。この仮定が現国道五六号線計画の基となる。その後明治二三年、当時の愛媛県の道路改修計画の構想では、愛媛県の北端から南端に通ずる重要な縦貫道として、松山―郡中―中山―内子―新谷―大洲に通ずる道路改修計画が立てられ、松山から郡中方面へと順次改修工事が進められてきた。
 ところが、海岸筋の各村が海岸回り線を強く要望したため、工事は一時中止の状態となった。
 しかし、内山筋の関係村長が、内山筋の改修が、その後中山地方から内子地方に利をもたらすことを説き、明治二四年県当局に対して、内山筋改修計画の推進を強く要請した。その要請書の一節には「我ガ内山筋ハ伊予国開闢以来今日二至ル迄、郡中ヨリ、佐礼谷・中山・内子・新谷ヲ経テ大洲二通ズルノ旧道ニシテ、久万山道路以南ノ中央線路ナリ、東南、宇和三郡二通ジ西北上浮穴郡二聯接シ物資・産物運輸ノ便人馬往来ノ要路デアル是レ内山筋改修ヲ可トスル第一也」とある。かくて県当局は当初計画どおり、明治二四年、引き続き一等県道として改修を進めることになった。その後、新国道五一号線と路線名が変わり、明治三五~六年頃犬寄峠までの改修が終わり、遂に明治三九年三月中山・出渕両村を通過した。
 その後、昭和二八年五月二級国道松山・高知線となり、さらに昭和三七年五月には一級国道五六号線に昇格した。
 この一級国道五六号線は、四国西南部を結ぶ幹線道路として車輛の通行量は多いが、幅員は四メートル程度と狭く急カーブも多い悪路であった。特に犬寄峠から伊予市に至る区間は、通称「犬寄ゼンマイ」といわれるゼンマイのような急カーブと急勾配の連続で運転手泣かせといわれた。
 昭和三〇年代後半頃から自動車は飛躍的に増加し、しかも大型化したため、単線で幅員の狭い道路での運行には困難を極め、特に泉町・豊岡等家屋の連結区間においては、大型車が家屋の軒をひっかける現象もしばしばみられ、国道の早期改良を強く要望されるようになった。
 この状況の中で、従来愛媛県が管理していたものが昭和三九年一一月から建設省の直轄管理となり、建設省松山工事事務所が担当して国道改修工事の予備測量に着手した。
 伊予市―中山町間の改修工事は、昭和四二年犬寄トンネル工事から着工され、幾多の難工事を経て昭和四六年度、第一次改修工事は完成した。
 この改修工事によって、全線二車線化され、従来からの犬寄峠越えの嶮路は、犬寄大橋の架橋と犬寄トンネルの貫通によって大幅に改良され距離も非常に短縮された。また旧国道は泉町一丁目から市街地に入り、泉町四丁目から中山橋・豊岡を通り落合橋から藤野に至るものであったが、この改修工事によって、泉町一丁目から中山川沿いに藤野に至る間の道路が新設され改良が図られた。
 この改修工事完成によって、従来松山市まで一時間二〇~三〇分を要していたものが四〇分程度に短縮されることとなり、地域社会の各分野に影響を与えることになった。

 中山橋の改修
 現在の泉町四丁目・豊岡一区の間に架設されている中山橋は、旧街道時代から「仙寿橋」と呼ばれていた。
 明治三九年(一九〇六)新国道五一号の改修にあたり、同年一〇月九日中山村・出渕村の協同村請負として架橋された。工事見積高は、三、七七一円二三銭であった。ところが木橋の橋材を探し求めたが、民有林からの購入の途がなく、国有林野産物売払規則の定めるところにより、上浮穴郡参川村小田深山国有林から引渡しを受け、ようやく架橋され、明治四〇年三月一八日をもって竣工した。その後大正一一年一月、永久橋として架橋した際、従来の「仙寿橋」を「中山橋」と橋名変更をした。その後もこの橋は改修が行われたが、橋名は変更されず現在に至っている。

 時局匡救土木事業
 昭和七年(一九三二)に、農村の不況救済を目的として、全国的に「時局匡救土木事業」が起こされた。この事業は、農民に賃金を収得させて匡救の実を上げようとするものであった。従来土木費が都市部にのみ支出されて、農村方面には少額であったのが、匡救事業の施行によって土木費の地方交付が行われ、明治維新以来の中央集権的諸施策に対して、画期的な事業であった。
 本町でまず着手計画を立てたのは、町道立川―上灘、及び大瀬―中山の二路線である。施工は、立川―上灘線が永木小学校前から昭和七、八年の二年間で約六〇〇メートルを、大瀬―中山線は、落合橋下手から同じく二年間で約四〇〇メートルを改修した。
 この二路線はその後県道に昇格される。また同年代において、林道泉町―坪井線・平村―梅原線が改修された。

 県道・町道
 時代の進展と共に、道路網の整備促進は町政の最重要課題とされるようになった。
 大正一二年、時の村長玉井浩三は県当局に対し、土木関係予算獲得のための積極的運動を行い、県道久万―中山線の改良工事に着手することに成功した。
 また大正一三年(一九二四)には、町村道泉町―永木線の改良工事も着工され、翌一四年には、県道下灘―中山線に路線昇格して県道として改良工事が進められるようになった。
 このように、町村長は県道予算の獲得に、町会議員は地元へ少しでも早く町道改良工事を実施しようと、政治生命をかけて奔走することになった。またそれぞれの路線の地元においては、「道路改修促進協議会」を結成して、事業の受入れ体制を整備し、併せて多額の地元負担金について関係有志の寄付を集める等、官民挙げて道路網整備に努力した。特に本町は、山村急傾斜地域であるため平地部に比べ工事費は累増し、大変な努力の積み重ねが必要であった。
 この先人達の功績を讃えるため、各路線においては道路工事の竣工や、開通にあたって改修記念碑を建立して後世に伝えることとするのを習慣とし、町内各路線に道路改修の記念碑をみることができる。

 2 運 輸

 明治期の交通
 明治になっても中山地方を通る人は多く、徒歩・駕籠・馬などのさまざまな手段で通っていた。人は弁当を腰につけ、草鞋掛けであり、馬は荷物を運搬するのに用いられた。
 ところが、明治三九年、新国道五一号線の開通に伴ない、車馬の往来が便利になり、住民の生活や生産に大きな変化が生じてきた。
 まず人力車の登場である。人力車が使われ始めたのは、明治初年であり、明治七年一〇月一八日、愛媛県人力車取締規則が定められた。新国道の開通によって中山地方へも一〇台位の車が備えられるようになり、それぞれの車夫は専業として郡中・内子方面へ通っていたが、利用者は一部の資産家であった。
 ついで荷馬車・客馬車が登場してきた。明治末期中山地方では大瀬鉱山による活況を呈していた頃で、馬車が荷役の花形として活躍しており、約一〇〇台の馬車が、内子~中山~郡中へ鉱石・薪炭・木材などの搬出に当っていた。
 中山から郡中までの行程は、午前六時に出発し、帰ってくるのは午後九時から一〇時に及ぶ強行程であった。
 客馬車は人力車と前後して出現した。当時奥島亀三郎・小田國盛らの共同で中山~内子、中山~郡中へ通う客馬車運行を開始した。駐車場は、現在の泉町二丁目の中山タクシー付近にあり、六人乗り八台で運行していた。
 当時の客馬車の車輪は、木製であり、屋根はトタン張り、左右前後に幕が張られ四輪であった。
 松山方面への乗客はたいてい犬寄で下車し、そこから旧道を大平まで歩き、大平で別の客馬車に乗り替え、郡中に出て軽便鉄道を利用して、松山等目的地に向ったものである。中には、中山から大平・郡中まで直通で乗車する客もあり、車夫には嬉しい乗客であった。
 その当時の料金は、内子まで一八銭、犬寄まで一二銭、大平まで二二銭、郡中まで三二銭であり、一日一車当りの配当金は一円二〇銭前後であったそうである(「中山町誌」―小田國盛談)。
 新国道の開通で中山町は多くの恩恵を受けることになるが、佐礼谷地区は国道が通過しておらず不便な地域とされ、道路整備を切望する声は多く、明治四三年(一九一〇)刊行の「佐礼谷郷土誌」は、同村の交通事情について次のごとく述べている。「明治三六年以前にありては本村の下部落なる日浦・影浦・竹之内等は国道の沿線にありたるを以て人馬の往来夥しかりき同年以後は新道の開通ありて其の線路を改めたるによりて従来に比し大いに僻在せるの感あるに至れり。
 里道改修の必要は一部人士の間に於て古くより唱道せらるる所なれども支障を生ずること多く悉く郡中町に運搬せられたるものなれ共全線開通後は貨物集散の中心は犬寄峠と変ずるに至れり、仝所よりは車力によりて郡中町に運搬せらるるに至り。(中略)村内道路には車力を通ぜず貨物の運搬は凡て馬背による。従前に比し近来馬匹の数減じたるとも猶百餘頭の駄馬ありて、四時物資の運搬に従う、道路嶮悪の個所多きを以て運賃高値にして荷主の損耗多しとす。冬季積雪多き候に際しては車馬の往来全く絶ち交通機関の止ること二、三日にも及ぶことあり。道路は、平坦の個所なく幅狭し、犬寄峠より郡中町へ貨物を運搬するに用いるもの本村に於て荷馬車二、牛馬一、中車三八あり外に山中嶮坂の運搬用として猫車一七を有す若し年来の宿望たる里道改修を見るを得ば交通の便を得るのみならず大小車の村内に往復をなすに至り、交通界の面目を一新するに至るべし」(以下略―原文カタカナ)と道路交通の整備促進が村勢発展にいかに重要であるかを訴えている。

 大正期の交通
 大正期の交通は、経済活動が活発になるにつれ、人や物資の動きが頻繁になり、国道の果たす役割も大きくなっていった。道路の改良と共に、人力車・客馬車・荷馬車などが荷物輸送の中心となっていった。
 そこへ大正二年(一九一三)、玉井荒太郎が松山から自転車の中古を購入して自転車屋を開業、これの普及に努め、中山地方での自転車時代の幕明けとなる。わが国における自転車の利用は、明治一四、五年からとされており、これに遅れること三〇余年にして中山へ入ってきたことになる。
 その後大正一二年には、三神数美も自転車屋を開業したが、その当時中山地方では二三〇台位の自転車が普及しており、道路改良に伴い、昭和初期にかけて著しく増加していった。
 また同一四年、自転車屋の玉井荒太郎が、真っ赤なインデアンを購入したのが中山地方でのオートバイの始まりである。続いて炭問屋の上田岸四郎がトライアンフを購入し普及に努めたが、当時は高価格と、乗車技術不足から一般化されず、急激に増加したのは戦後のことである。
 大正期における本町の交通手段に、大きい変革をもたらしたのは、乗合バスの登場である。
 愛媛県におけるバスの営業は、大正初期に桧山~堀江~北条間の運行に始まり、人力車・客馬車に代わって利用されるようになった。
 大正五年、八幡浜の医師上甲廉等によって伊予自動車株式会社が設立され、本格的経営が始まり、同年一一月三日に、八幡浜~大洲~中山~郡中の間で運転が開始された。
 今日のスマートな自動車とは比較にならぬ粗末なものであったが、乗ってさえいれば走ることのできるという驚異的な車の出現に、人々は戸外に走り出て自動車を眺めたものである。

 昭和期の交通
 昭和初期は、客馬車・人力車等が主な交通手段であったが、自動車の発達と国道の改修、国鉄の南進等によって本町の交通体系は変化した。特にバスの開通後は、中山町に宿泊する人は漸減し、中継地・宿場町としての中山町の地位は大きく変貌していった。
 国鉄予讃線は、昭和二年四月松山まで開通、同五年二月には郡中まで開通した。一方、内子へは大正九年から軽便鉄道が開通しており、中山町の人や物資は、バスや荷馬車で郡中駅や、内子駅に向って運搬されるようになった。
 昭和期に入ってから、松山~八幡浜間のバスは中央・愛媛・大洲・内子の各自動車会社のものが運行し、客の奪い合いで鎬を削ったが、やがて経営困難に陥った。昭和四年中央・愛媛・内子の三社が企業合同し、同八年には、この三社に郡中目動車を加え、三共自動車株式会社として新発足し、バス営業はますます拡大して中山町を通過する運行回数も増加していった。
 やがて戦争の勃発によって、戦時体制に突入。国策遂行のため各業界において企業合同が実施されることになった。三共自動車株式会社は、昭和一九年伊予鉄道電気株式会社に吸収合併され、この路線のバス運行を引継いだ。
 しかしながら、当時の民間輸送力は燃料不足から低下しており、これの打開策としてガソリン車に替えて、木炭ガスを燃料とする木炭車が登場した。
 木炭車は馬力か弱く、犬寄峠越えの急峻な道路となるとそのスピードは極端に落ちて、人が走る程度の速度で、時には乗客全員が降車してバスの後押しをして進めた等の話も伝えられている。
 一方貨物自動車は、昭和三年(一九二八)頃奥島亀三郎が購入して運送業を始めた。同一七年には、一業者一台の所有で六業者が運行していたが、これも戦時下の企業合同によって中予運送株式会社が誕生し、この会社の中山営米所において共同運行することになった。
 自転車についても、大正一四年に町内で二三〇台が所有されていたものが、昭和一七年には七一五台と急速に普及し、松山・郡中・内子・大洲等近隣町村へは自転車で行き来する青年が増え、通学用としても広く利用されるようになってきた。
 当時、犬寄峠から郡中方面へ行くには旧道を利用していたが、帰路の小手谷から犬寄峠までは、長谷坂といわれる急峻な道で苦労しており、小手谷には、労賃を徴して自転車を押し上げてくれる人夫が待機していた。

 戦後の交通運輸
 戦後の混乱期を経て、社会秩序も順次安定し、戦後復興事業を中心とし、特に朝鮮動乱による特需景気等もあって、わが国経済は急成長を遂げ、交通運輸業界は活況を呈し、本町の交通量は増大の一途をたどっていった。
 特に、松山~八幡浜間の伊予鉄バスの運行は、当時鉄道の開通していなかった中山町民にとっては唯一の交通手段であったのでこれに依存し、松山・郡中・大洲・内子等への買物・通勤・病院通いなど利用客は増大し、生活行動範囲は拡大していった。また同三〇年代になると県道が順次整備され、町内を運行区間とする佐礼谷行き・栗田行き・永木行きの定期バスが運行され、交通不便地住民にとって多分な恩恵に浴することができるようになった。
 昭和三六年度バス利用者調べは、表4-3のとおりであり、交通手段としてのバスヘの依存度が窺える。
 また同二七年には、奥島亀三郎が乗用車を購入して、中山タクシーを開業し、三〇年代には、内山タクシーも開業して住民の足が確保されていった。
 一方、貨物輸送においては、同二九年九月奥島亀三郎・山内広吉・西川義憲等の出資によって中山陸運有限会社が設立されトラック四台、三輪車一台で運行を開始した。
 ところで、同四〇年代に入ると、わが国経済は再び高度成長期を迎え、国は新全国総合開発計画を策定し、特に交通網整備に重点を置いた施策の展開を図っていく方針を決定、いわゆる高速交通時代、そしてマイカー時代へと突入していった。
 中山町においても自家用車を購入する者が増加し、特に昭和四六年(一九七一)に国道五六号線が改修され、松山まで四〇分程度と従来に比べ時間距離が半減したことと併せ、農業の兼業化の進展もあって、松山・伊予市方面に職場を求め通勤者が激増するのと比例するごとく自家用車は増加していった。
 国道改修後、バスも増便され、さらに宇和島バスも定期運行を始め、三〇分~四〇分に一回は発着するようになった。
 国道五六号線はまた、南予及び高知県あるいは九州方面を結ぶ幹線道路としての機能を有していることもあって、中山町内を通過する車輛台数は三〇年代に比べ激増し、交通事故が多発して、交通安全対策が厳しく指導されるようになった。
 昭和六一年(一九八六)国鉄新線内山線の開業と、マイカーの一層の普及によって中山町の交通体系はまた変化していった。
 従来松山市内の高校・大学への進学は、市内へ下宿して通学していたものが、国鉄開通後は、運賃がバスの半額程度であること等から町内からの通学を可能にし、また通勤者も増加していった。
 一方マイカーの普及は、バスの乗客数を減少させて、運行回数が減便され、特に町内を運行区間とするバスの乗車率は著しく低下し、乗客は老人と子供だけというようなことが普通の状態となり、不採算路線として合理化が進められるようになった。
 この、地方におけるバス路線確保の問題は、マイカーの普及に伴ない全国的にも問題とされるようになった。
 中山町議会では、昭和五三年(一八七八)に次のような意見書を提出して政府に対し地方における公共交通確保を訴えている。

 公共交通確保のための法制化に関する意見書
 交通事業は、地域の経済活動と地域住民の日常生活を確保する重要な社会的使命を担っている。
 しかるに、最近における地方交通事業をめぐる社会情勢は大きく変化し、自家用自動車の普及、農山村地域等不採算路線の拡大に伴う輸送需要の減少などにより中小民営交通事業の経営は著しく圧迫され、公共輸送機能の維持が極めて困難となっている。
 よって政府におかれては、公共輸送機関の維持確保と、経営の健全化を図るため、第八〇回通常国会から継続審議中の次の法律を早急に成立されるよう強く要望する。

     記
一、地方陸上交通事業維持整備法
二、中小民営交通事業の経営基盤の強化に関する臨時措置法
三、交通事業における公共割引の国庫負担に関する法律
四、中山間民営交通事業金融公庫法
   右、地方自治法第九九条第二項の規定により意見書を提出する。
   昭和五三年三月二二日
             中 山 町 議 会
 提出先
 内閣総理大臣 大蔵大臣 運輸大臣

 さらに徳島を起点に、愛媛県を縦断して大洲市に至る延長約二二二キロメートルの四国縦断自動車道は、平成八年には伊予市まで開通が予定され、平成一〇年には中山町を経て内子町まで通じることになっていて、工事や、用地買収は順調に進捗している。中山町へのインターチェンジ設置計画は持たれていないが、従来の国道五六号線を幹線とする交通体系は、高速道路開通後は大きな変化が予測され、これにどう対応するかが課題となっている。

 交通安全への対応
 中山町は、国道五六号線が通り、その交通量は県内国道中一一号線についで多く、自動車の普及増と比例して年々増加している。県内の自動車保有台数は、昭和二四年に一、八七二台であったものが、昭和三五年には三万二、六二〇台となり、中山町でも昭和三二年に一六九台、同四三年には三一九台と倍増していった。さらに同五六年には全県で五一万台を突破して、一世帯当たり一台にまで普及した。五五年における中山町の普通乗用車普及率は、六九・ニパーセント、自動車全保有台数は、二、二五六台と一世帯当たり、一・四台を保有するまでに増加し、道路整備の進捗度を上回って増加していった。
 交通量調査表4-2で昭和三七年と平成二年を比べてみると、歩行者・自転車は激減し、自動車は二八年間で実に二〇倍強の増加である。
 特にわが国経済が高度成長を遂げた、昭和四〇年代に入ってから、同五五年までは自動車の保有台数が激増し景気の上昇に伴なって経済活動範囲も、生活行動圏も拡大して物資の輸送量は増大し、人の交流が一層盛んとなった。特に国道五六号線では広域交通の幹線道路として交通量の増加に比例するように、交通事故が多発するようになり、交通死亡事故も発生する等交通戦争といわれる時代へ突入していった。
 事故発生原因については、運転者の責任に帰することが多いが、道路整備の問題、安全施設整備の問題、自動車の大型化・ハイスピード化の問題等々、人的・物的に改善していかなければならないことが多い。
 特に高速交通時代とも、交流の時代ともいわれる今日、安全で快適な交通ができるように、新しい時代に向かっての交通安全対策の確立こそ急務である。

 交通安全対策
 昭和四〇年代の急増する自動車、それに伴なう交通事故の発生に、町当局は「交通安全の保持に関する条例」を制定し、住民の交通安全に対する意識の高揚を図ることとし、昭和四〇年一月四日条例第一号として施行した(条例参照)。
 この条例は、従来民間団体の活動に依存してきた交通安全保持に関する諸活動を、町自ら積極的に推進しようとするもので、交通道徳の高揚・町民の事故防止への取り組み・交通安全施設の整備等、広く住民の総力を結集して交通安全の保持を図ろうとするものである。
 特に国道五六号線改修後における、泉町三丁目の横断歩道橋・交通信号機の設置に関しては、建設省松山工事事務所と、交通取締当局へ強力な要望を続けて設置が実現された。それと共に、県道・町道・農林道については、カーブミラー・ガードレール等安全施設の整備を図ることとし、年次計画に基づいて順次整備を進めている。
 また昭和五六年三月には、「交通指導員規則」を制定施行して、運転者・歩行者に対する交通マナーの指導や、交通安全の保持に関する指導にあたらせることとし、安全対策に万全を期すこととしている(規則参照)。

  ○交通安全の保持に関する条例(昭和四十年一月四日条例第一号)(抜粋)
 (目的)
第一条 この条例は、地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)
 第二条第三項第八号の規定に基づき、交通安全の保持に関し、必要な事項を定めることを目的とする。

 (事業)
第二条 町長は、交通安全の保持を図るため、次の事業を行なう。
 一 交通事故の防止に関すること。
 二 交通安全の指導育成に関すること。
 三 交通安全思想の啓発に関すること。
 四 交通安全施設の設置に関すること。
 五 交通危険箇所の改善に関すること。
 六 その他交通安全の保持に関し必要と認めること。
                          (以下略)

  ○交通指導員規則(昭和五六年三月三十一日規則第三号)(抜粋)
      改正 昭和五八年 五月 一日規則第四号
 (目的)
第一条 この規則は、交通安全の保持に関する条例(昭和四十年中山町条例第一号)第五条の規定に基づき、交通指導員(以下「指導員」という。)の定数、任免及び職務等に関し必要な事項を定めることを目的とする。

 (職務)
第七条 指導員は、次の各号に掲げる職務を行う。
 一 児童、老人等の通行の誘導保護
 二 歩行者、自転車利用者に対する交通指導
 三 道路の不正使用、障害物整理の指導
 四 住民に対する交通広報
 五 前各号のほか、交通安全の保持に関する指導
                          (以下略)

 交通安全協会
 昭和三〇年新町の発足に伴ない、従来中山町と佐礼谷村にあった交通安全協会と運転者協会が、発展的に解散して交通安全協会を結成新発足した。この会は、昭和四一年一二月に伊予交通安全協会中山支部として組織変更、現在に至っている。
 会則によると、会員は町内に住む自動車運転免許証所持者で構成し、会の目的として、会員相互の親睦と交通関係全般の発展を図り、併せて交通道徳の普及高揚及び交通安全の保持を規定し、この目的達成のための事業としては、次のような項目を定めている。
 (1) 会員相互の連絡協調
 (2) 交通事故防止及び交通道徳の高揚のための啓発宣伝
 (3) 交通安全施設の改善及び交通能率の増進に関する調査並びに研究
 (4) 自動車運転者に対する安全教育
 (5) 交通功労者及び優良会員・優良運転者などの表彰
 (6) その他目的達成に必要な事項
 この会の具体的事業としては、会員の安全運転講習会の開催、カーブミラー等安全施設の整備、街頭に出て運転者・歩行者を含む交通安全対策の指導、交通茶屋の設置等がある。役員を中心としてその活動は年中に及び奉仕的積極的に活動し、交通安全対策の保持に努力している。なお歴代会長(支部長)は、次のとおりである。
  初代 松岡貞治、二代 谷岡貫市、三代 永井敦志、
  四代 永木敏明、五代 美濃定義


表4-1 輸送運搬具・自動車類所有状況の推移

表4-1 輸送運搬具・自動車類所有状況の推移


表4-2 中山町における交通量調

表4-2 中山町における交通量調


表4-3 昭和36年度バス利用者調

表4-3 昭和36年度バス利用者調


表4-4 自動車類交通量調査

表4-4 自動車類交通量調査


表4-5 伊予郡内における自動車数

表4-5 伊予郡内における自動車数


中山発バス時刻表

中山発バス時刻表