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中山町誌

一、 学制の制定

 明治五年に学制が制定され、長期間続いた寺子屋教育も廃止に向かい、伊予郡下約七〇の寺子屋の内一四を残すのみとなった。
 文部省は、「自今以後一般の人民、必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」として、一般人民はすべて学校教育を受ける義務があり、親は子を就学させる責任があることを明示した。
 「学制」は全部で一〇九章から成っており、その第二章で「全国ヲ大分シテハ大区トス之ヲ大学区ト称シ毎区大学校一所ヲ置ク」とあり、第三章で、当時石鉄県・神山県の二県に分かれていた愛媛県は、第五大学区に置くことが示されている(のち明治六年四月大学区改正により愛媛県は第四大学区となった)。
 一大学区を三二中学区とし、区ごとに中学校を一つ置く(全国で二五六校となる)。一中学区を二一〇小学区に分け、区ごとに一小学校を置く(全国で五三七六〇校となる)。中学校区以下は、土地の疎密等もあり便宜を考えて郡区村市で区分することとなっていた。
 また、文部省規定小学校教則によって、尋常小学校は上下二等分された。下等小学校は六歳から九歳、上等小学校は一〇歳から一三歳までの在学八年間となった。
 郡下でも四年制の下等小学校が設置されたが、山間地域では、町村の財政貧弱のため小学校設置が困難であることを考慮して二年制を実施しているところもあったようである。
 しかし、郡下の町村(現大字)ごとに小学校が設置されたようで、次表によれば本町にも八小学校が設置されていた。
 明治一二年の教育令により、学校は小学校・中学校・大学校・師範学校・専門学校となり、従来の学区制を廃し、町村あるいは町村連合の公立小学校を設置するようになった。このほか男女共学を認め、就学期間を一四歳までの八ケ年としたが、地域の事情で四ケ年も認めた。
 さらに翌一三年には、県で公立小学校教員委嘱規則を定め、変則的小学校や寺子屋は、一部を除いてほとんど姿を消すに至った。

表1-3 明治初年創立小学校

表1-3 明治初年創立小学校