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中山町誌

三、 学童の勤労奉仕

 県では、すでに昭和一八年七月内政部長通牒を発し、必要に応じて農繁期における授業廃止の延長、学校園・校庭を利用しての食糧増産、河川敷・荒地・休閑地等を開墾して、麦・粟・大豆・さつまいも・かぼちゃ等を作付けするよう指示した。
 山村の学校では、運動場開墾、山草刈り、木材搬出、山畑開墾、砂運び、甘藷植え、麦刈り、桑の皮はぎ、田植え、大豆蒔き、木炭運び、薪運び、稲刈り、稲こぎ、麦まき、甘藷供出など雑多な作業に取り組んだ。
 宮内ミウラ(元中山小教員中山町東町在住)は「中山小学校開校百年のあゆみ」の中で次のように記している。

 「戦争が激しくなり食糧事情も窮屈になった頃、固く踏み固められた運動場をみんなで地掘りで起こし、さつまいもを植えたこともありました。
 町の大方の男性は次々と出征徴用に取られ人手不足のおり、栃谷山や黒獄山の方へ炭の搬出で高等科の子供たちがかり出され、遠い山へ炭かるいに行ったのも苦しい思い出の一つです。子供たちはみんなオイコを持ってきて、オイコに炭をつけ、肩にくい込むひもを必死でこらえ、ひざのがくがくするのをがまんして、搬出に励んだものでした。(中略)何事もお国のためと黙って堪えてくれたこどもたちに済まない気持ちで一杯です。(中略)私も当時はまだ若いし元気だったので滅私奉公国民皆兵の気持ちで努めました。(中略)出徒兵士の留守を守って戦争に勝たねばと頑張ってきました。」