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中山町誌

六、 生活用品の欠乏

 「学用品や教育備品の欠乏は、既に太平洋戦争開戦前からのことで、昭和一三年(一九三八)には学用品節約の通達が出されている。
 それは、教科書は下級生に譲れるように、書き込みをしないこと、消しゴムを使わず斜線で消すこと、下敷きはボール紙などで済ませること、鉛筆の削り方に気を付けること、筆や墨を大切にし、小さくなった墨は墨挾みをつけて使うこと、用紙は裏も表も幾度も使うこと、裁縫箱も空箱などで済ませたといったように、学用品全般にわたるものであった。
 戦争が長引くにつれ、金属が周りから姿を消していった。勤勉努力の手本として建てられていた二宮金次郎像や寺の釣り鐘、窓の鉄格子なども金属供出の命令により供出された。
 家庭の金属製の調度品まで無料で回収された。なべ、釜などは回収を免れたが、店頭からは姿を消した。また、子供たちの学生服のボタン、帽子の記章まで回収され、代わりに陶器や木製のものが与えられた。」
 さらに、航空燃料を得るために松の根を掘り取り、乾溜方法で松根油の増産を図ろうと「松根油等緊急増産実施上学徒非農家等動員に関する件」が通達された。
 山村では、松根だけではなく松の樹液の採集も行った。家の周辺、道ばた、お寺、神社の境内などの目につく松の幹には幾筋もの傷をつけて樹液を採った。
 本町での松根乾溜には泉町四の故亀岡佐賀雄が従事した。乾溜場は中山町漆ロ(現上岡武行宅前)の国道五六号線沿いにあった。松根を鉄製の大きな釜に入れ、火で加熱して油をとり、残りの炭も燃料に使われた。