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中山町誌

三、 軍事教育の廃止

 軍事教育を一掃するための施策として、体育面では「秩序・行進・徒手体操」等に対して具体的に規制を加えた。教材面では「国防軍備」「戦意昂揚」等に関する教材や国際の平和を妨げる教材、戦後の実情に合わない教材は削除されることになった。
 昭和二〇年一二月には、連合国軍総司令部の命により修身・国史・地理科等の教科書は全部回収することになった。その他の教科書では削除修正の箇所を細かく示して修正漏れがないよう指示している。初等国語二の例によると、「何十臺の戦車が」を「何十臺の自動車が」に修正、同「何萬トンの、ほら、軍艦だ」を「何萬トンの、ほら、貨物船だ」に修正するように指示している。
 また、削除すべき教材の例をみると、初等科六年の国語では、水兵の母、姿なき入城、十二月八日、不沈艦の最期、敵前上陸などがあった。
 このほか、地図帳等の「樺太」「朝鮮」「台湾」「小笠原諸島」などの旧日本領土にも墨を塗らせ、剣道・柔道の用具は警察へ集めて焼かせたりした。
 神社や寺に関する指示は特に厳しく、児童を引率しての参拝は厳禁となり、そこでの休憩や昼食することも禁止され、これらを写生することも注意された。
 集団訓練や士気を鼓舞するようなことは禁止され、教師が指揮台に立って体操を指導していたところ、指揮ぶりが不穏当であるとして、進駐軍にとがめられた例もある。
 上西只市(当時中山小教頭伊予市在住)は、「伊予郡市教育界のあゆみ」の中で次のように述べている。
 「昭和二二年三月、中山国民学校の児童が学芸会の練習をするため、竹に銀紙をはって下校時に持って下校していたところ、街道を走っていた進駐軍のジープが止まり、子供を乗せて中山町駐在所につれ去った。子供達の届出で校長が留守のため、教頭が釈明のために行ったが、進駐軍は何か大きな声でわめきたてて要領を得ない、そのうちアメリカに在住した事のある郵便局長さんの通訳で交渉を始めた。先方のいい分は、どんな理由があろうと学校教育で、武器に類するものを扱うとはけしからん。学校側では、『昔の旅と今の旅』をさせるための劇で使用したものであり、他意のない事を釈明したが、なかなか了解しない、そのうち、『このような刀を何本作っているか持っている子供の名をいえ、直ちにその刀を集めて提出せよ』といわれ、学校当局も大あわてで、先生達か児童の家庭にとんでいって刀を集め、平身低頭陳謝につとめた結果、英文の誓約書に署名してやっと許された。」