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中山町誌

四、 教員の待遇

 終戦直後の教員の待遇について、当時伊予地区で教員をしていた一ノ瀬楠矩は、次のように述べている(「伊予郡市教育界のあゆみ」より)。
 「そのころ教員の経済状態は悪く、新卒の先生で月給四二〇円位、当時の鶏の卵でも一個一二、三円していたのだから、鶏が毎日卵を産むとしたら新卒の先生は鶏一羽の役目に過ぎない。また、校長の月給は一、〇〇〇円位、当時荷車引きで一日五〇〇円位の収入があった。
 よくなる橙の木は一本一〇〇貫(一貫は三・七五キロ)からなったが、夏柑一貫目上等で一五〇円、普通品で一〇〇円はしていたので、校長の一年間の給料は橙の木一本程度であった。」