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中山町誌

一、 中山保育園

 終戦後しばらくの間、大部分の日本人は生きる気力を失い、その日を生きていくだけで精一杯だった。義理や人情などは影をひそめ、教育も方向性を見出せず、日本の将来はまったく予想もつかなかった。
 しかしそのような状態も少しずつ良い方へ変化し、ようやく日本の再建には人づくりが大切だ、特に幼児教育が大切だと考えられるようになった。恵まれない子供の幸福を考えた当時の婦人会長山本クニヱが中心になり、婦人会の人々が一体となって、様々な障害を克服して保育園の設立が実現した。
 設立当初の経過を回顧すると次のとおりである。

 〔昭和二五年一〇月二三日〕
  保育園建設事業開始当日、地ならしが始まった。有志をはじめ、門前青年団・泉町・豊岡・東町婦人会幹部・中学校の先生・生徒・役場の方々に手伝ってもらった。お陰で事業が着々と進行した。
 〔昭和二五年一一月五日〕
  材料の運搬、砂運びをするにあたり、門前青年団・平沢青年団・婦人会員にお世話になった。
 〔昭和二六年三月二二日〕
  保母の人選交渉に出掛ける。
 〔昭和二六年四月一〇日〕
  午前七時より、森岡品吉様宅にて婦人会幹部が集まって、午後四時頃まで餅搗を行った。餅米は森岡品吉・私とその他の役員が出し合って全部で四斗余りの餅を搗いた。
 〔昭和二六年四月一四日〕
  午前九時、中山町母子園開園式を挙行。午前中撒餅を行い、午後は来賓の祝賀会を催す。
  約一年間にわたる婦人会・青年団の努力のたまものであることを深く感じさせられた。(第二代園長 仙波雅子記)

 こうして、昭和二六年に園児一〇五名を迎えて季節託児所としてスタートした。しかし、三間×五間(約一五坪)の保育室には、机も腰掛も黒板もなく、中学校から借りたベビーオルガンと紙芝居が一つずつあるだけ。一〇五名の園児を相手に遊具もなく、保母が作った人形やお手玉、大工仕事の本の切りクズの積木など、手作りや素材を活用したアイディアの遊具から始まった母子園であった。
 園庭の遊具や備品なども少しずつ整い、人数に対して保育室が狭いことから新築の要望が高まり、昭和三四年に新築計画が立てられた。翌三五年念願の園舎が現在の福元に新築され移転竣工の運びとなり、中山母子園が「中山保育園」と改名された。
 昭和四二年、小学校と合同で運動会が行われ、幼小関連教育についての話し合いも開かれるようになった。
 この頃から三歳児の入園も増え、二歳児入園希望も出てきて、昭和四三年に年少、二歳児組が増設された。
 幼児教育に対する関心が深まってきて、昭和四八年に灘岡怜子を初代会長として「手をつなぐママさんクラブ」が発足し、育児講座、手芸教室などが行われ親子読書もスタートした。
 生活環境の開発事業が盛んになり、河川工事などが行われると、泳ぐ場所がなくなっていった。園の片隅にある足洗い場程度のミニプールでは間に合わず、プール設置の声が高まった。当時の後援会長谷口徳衛以下後援会役員の助力により、昭和五一年、園庭に立派なプールが設置された。
 昭和五四年、当時の後援会長故新岡宗清、副会長一木千秋ら役員と元園長宮内ミウラらにより、創立三〇周年の記念行事の計画や「三〇周年記念誌」の編集に努め、昭和五五年、創立三〇周年記念式典が盛大に行われた。
 この頃から、保育所を理解してもらおうと、全国各地で「一日保母運動」が始まり、昭和六三年には中山保育園でも、文教福祉委員長西田義晴、民生委員宮田知らにより、一日保母体験活動が実施された。
 平成四年には、一四回続いた中山町内幼稚園・保育園合同の交流バレーボール大会と、一〇回続いた幼保合同運動会を一つにした「第一回中山ちびっこフェスティバル」が始まった。
 平成五年に、伊予郡五ケ町村で順番に行われている「一日保母運動」の体験活動が中山保育園で、助役市田勝久、議会議長中岡健一らにより行われた。
 老朽化してきた園舎に対して、六、七年前から保護者が要望し続けてきた園舎改築が実現の運びとなった。
 平成六年三月三〇日、園舎備品等の引っ越し作業を福祉課職員、保育園職員で行った。備品類は中山小学校「かしの木学級」の一部屋を借りて収納した。
 平成六年四月より中央公民館を仮園舎として保育を始めた。大ホールは年長・年中・年少組、一階の和室を二歳児の保育室に、調理室を保育園の調理室として使用した。新園舎は平成七年二月に落成した。

中山保育園のあゆみ 1

中山保育園のあゆみ 1


中山保育園のあゆみ 2

中山保育園のあゆみ 2


中山保育園のあゆみ 3

中山保育園のあゆみ 3


中山保育園のあゆみ 4

中山保育園のあゆみ 4