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中山町誌

一、 中山小学校 ②

  《同窓生や古老の話より》
①明治末期から大正

  ○ 明治四一年度卒業・亀岡宗吉
 ~前略~中山尋常高等小学校の尋常科・高等科各四年の課程を終え、一四歳の時卒業した。
 中山・出渕合併後の新校舎で、明治四一年三月卒業式の日は雨であった。「仰げば尊し」を歌い、「蛍の光」に送られ、教え導きを受けた恩師や、長く親しんだ学びの庭とも別れた卒業式は思い出の一つだ。
 入学した時、泉町一丁目、宮島さんの下隣りに校舎があり、校門を入ると正面と両側に校舎があった。運動場は、校舎の裏側にあった。
 その頃、正月には、生徒が半紙を切って謹賀新年と名前を書いて、先生の御宅に年賀のご挨拶に伺った。大変にぎやかであった。
 私共の組は男女合わせて三二、三名だったが、教室の人口に成績の順に名札が並べて掛けてあり、優等生は赤字で七、八名、他は白字であった。
 日露戦争の末期、中山町出身の兵隊さんが、多数戦死し、生徒が紅葉谷まで遺骨をお迎えに行き、盛景寺でのお葬式に列しか事が数多くあった。悲しい思い出の一つだ。

 ○ 宮内ミウラ
 大正一二年頃は、現在とは比べものにならない冬の寒さで、積雪も多く、三〇センチ以上積もることも珍しくなかった。でも、臨時休校となることはまずなかった。坪井からの冬の登校は、坂道が多く、底のすり減ったゴムぐつでは滑るので、大変苦労した。~中略~
 大正元年頃、妻鳥暁太郎が中山行進曲を作詩・作曲して、昭和の初めより毎年、運動会でこの曲に合わせて、日の丸の小旗を手に持ち行進した。

②昭和の初期から昭和二〇年まで

 ○ 昭和二年度卒業・豊谷修一郎
 私が小学校に入ったのは、大正一一年四月。読み・書き・算盤の実用教育の名残りが残っていたが、その当時の教科は修身・読み方・算術・地理・歴史・理科・唱歌・体操・手工・図画といった具合だった。書き方の時には、半紙一〇枚ばかりを綴った「書き方練習帳」(俗称草紙)が真っ黒になるまで使った。体操の時間は体育館などはなく、運動場も整備不十分で、冬の雨の後の運動場はじゅるくて体操は出来ない。それで話し方に早変わり、一人ひとり教壇に立ってお話をよくしたものである。~後略~

○ 昭和一四年度卒業・田中利男
 ~前略~今の若い人には滑稽とも思えようが、厳冬期も足袋を履かないで登校する事が自慢だった。ほとんどの者が、雪の日も校舎では、素足にワラ草履で過ごしたと思う。又、弁当に米飯を持って来る事は、絶対禁止だった。しかも昼食は、火の気の全くない教室で、先生と一緒に週番の発声で一斉に始めたものだが、それでも、格別寒かったとか、まずかったとかの印象は残っていない。~後略~

③戦後のこと

 ○ 昭和二六年度卒業・井手窪理
 ~前略~敗戦の痛手が消えやらぬ昭和二一年四月、私たち同窓生は中山小学校の門をくぐった。いわゆる「国民学校」の最後の年である。また、いわば戦前と戦後の接点の年でもあった。
 一年生は松・竹・梅の三組だった。松は男子のみ、竹は男女混合、梅は女子のみという組分けであった。~後略~

 《創立一〇〇年記念座談会(昭和四八年)より》
 参加者 仙波文翁 阿部新 西本東 山本キクエ
      宮内ミウラ 岡田久 岡井校長 岩崎教頭

  〈当時の校舎の様子と変遷について〉
S 運動場の南の端に校舎があり、裁縫室もありました。
M 私たちの時には裁縫室は本館の上にあり、小学校を卒業した人たちが、裁縫を習いに来ていました。
N 大正時代は旧校舎三棟でした。高等科は旧職員室の上の二階でした。(大正の終わり)

  〈修業年限や児童の様子について〉
S その頃は臨泉小学校といっており、尋常科四年、高等科四年、補習科が二年でした。

  〈通学範囲について〉
M 平沢の子供は立川の方へ行っていたようでした。高等科になると中山へ来ていたようです。

  〈尋常科を卒業された人はどうしたか〉
S 小学校を出ると百姓をしていました。松山の中学へ行く者は数えるほどしかいなかった。
A 松山へ行く者は少なかった。
N 級に一名くらい、中学校か商業学校へ行き、伊予農はぼつぼつ。師範学校へは一名くらい行った。

  〈服装はどうか〉
S 女子は着物、男子も着物でした。男子は筒袖の着物でした。
Y 着物で、へこおび、前掛け。式の時は、袴をはきました。
O 女子は上っぱりのようなものを着ており、式のときはセーラー服でした。

  〈学習内容について〉
S 修身と国語、綴り方、習字があり、修身は校長が受け持たれた。教材は紙に絵を描いたもので、それを黒板に貼って、「お前たちも、このような人になれ」とよく言われた。特に取り上げられた人物は二宮金次郎でした。
A 修身教育が徹底していて、二宮尊徳先生の勤労、孝行の教えを徹底して教育された。
Y 算術の本はなくて、教育手帳があり、はじめに尊徳先生の写真、次に校訓が書かれていました。修身教育が重点でした。
M 理科・地理・裁縫が四年生の時からありました。図画は臨画だけでした。
O 国語の教科書の最初は「サイタ、サイタ、サクラがサイタ」でした。修身と教育勅語をやかましく教育されました。

  〈先生の服装は〉
A 男の先生はつめえりの洋服がほとんどでした。
Y 女の先生は着物に袴でした。

  〈宿題はどうだったか〉
M 宿題はありません。帰ったら手伝いをして、勉強するときはありませんでした。
N ありました。やっていかないと立たされました。

  〈運動会はどうでしたか〉
O 分団リレーで優勝して町内をパレードしたことや、中山行 進曲を覚えています。高等科の時は、運動場が芋畑になっていて、運動会はありませんでした。
O 高等科時代は、裸・裸足でやりました。    ~後略~

 《PTA活動》
  ◎二宮尊徳銅像について
 皇紀二六〇〇年(昭和一五)に、玉井民三郎の寄贈で、講堂前に建てられていたが、太平洋戦争のため金物を供出しなければならなくなり、やむなく尊徳銅像を台のみ残し、お国の為にと、赤たすきをかけて送り出してしまった。
 その後、昭和二八年に当時の校長阿部参弥から、三代PTA会長のところへ再建の依頼が来た。熱心な懇願を受け再建した。現在、中山小学校の中庭に立っている。経費は当時の金で一〇万円位かかったということである。

 ◎昭和三六年頃のPTA活動
 昭和三六年より四〇年まで、五年にわたり中山小学校PTA会長として努力したのは、玉井久夫であった。その当時は、PTA総会や学習参観への参加者がたいへん少ないので苦労した。そのため、部落出張懇談会を行い、親の教育に対する、より強い関心を喚起しようと努めた。学校側から参加したのは、校長・教頭・部落担当の教員とPTA会長であった。
 その結果、教育への関心も高まり、参観日の出席率も上昇、九〇%を越えるようになった。

中山小学校年表 1

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中山小学校年表 2

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中山小学校年表 3

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中山小学校年表 4

中山小学校年表 4


中山小学校年表 5

中山小学校年表 5


中山小学校年表 6

中山小学校年表 6


中山小学校年表 7

中山小学校年表 7


中山小学校年表 8

中山小学校年表 8


中山小学校年表 9

中山小学校年表 9


中山小学校年表 10

中山小学校年表 10