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中山町誌

三、 永木小学校

 一、永木の寺子屋と学校

 「梅原学校」
 江戸時代の中山町は山間の小集落で、泉町に一〇〇余戸の商家があったぐらいで、永木地域はほとんど農家であったから、学問は必要でなかった。だから読み書きのできるものは村役人、僧侶、神官ぐらいであった。しかし江戸時代も後期になると、中山町内にも寺子屋式のものが延ベ一三あった。永木校下にも梅原に徳雲道海師他により教育が行われ、文化三年(一八〇九)から、一時中断の時期もあるが、明治七年廃止されるまで、八才から一五才までの子どもが学問を習っていた。
 また、旧『中山町誌』には、三島神社の神官、佐伯陸奥守が文久・元治年間に有志の教育にあたり、梅原寺の住職謙光和尚が江戸時代の末期から明治の初期まで、梅原寺で「いろは」や人名を教えたと記録している。
 この記録を考察すると、永木地域の教育は中山町内でも最も古く、文化の高い様子がうかがえる。こうした歴史を受けて、明治五年に学制が発布され、「邑ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」の精神にもとづき、明治七年三月須原謙光を教師として、教育が始まっている。これを梅原学校といっていた。

 二、神渓小学校から永木尋常小学校へ

 明治八年(一八七五)九月、三島神社の神官であり、学務委員であった寺井哲心が、自宅(社務所)を解放して教室とし、教育を始めた。そして、神社前に校舎を新築した。これより「神渓小学校」といった。
 開校時の校舎は三島神社の北側にあり、七・五坪(二七㎡)児童数三〇名であった。
 明治一三年二月には、喜多郡新谷村の人で徳田一寧が最初の教員として来た。
 明治一九年(一八八六)、小学校令が交付されると学校名も、神渓簡易小学校と改称した。
 さらに、明治二三年に小学校令が改正され、同二五年、学校名を永木尋常小学校と改称し、その時の児童数は七五名であった。     (「我が故郷 ながき」より)

 昭和一八年~一九年頃
 当時は生徒が一三〇~一四〇名、教師は四名で、一・二年生は単級で三年生以上は複式だった。校舎は玄関を上がったところが職員室、その両側に二教室ずつ、運動場の向かい側に講堂兼裁縫室兼音楽室、その横に校長住宅と物置、校舎の右端のきれいな水の湧き出るところに、一階が小使室、二階が宿直室という建物があった。
 当時は戦争の最も激しかった時で、食料難のため、運動場の半分以上は耕してサツマイモを植え、木を切った山へ大豆や小豆、サツマイモを植えた。収穫したものはすべて供出した。
 運動会とか、学芸会といったものは、一度もなかったが、遠足だけは行っていた。一度、灘の海岸へ行ったら、生徒たちが大変喜んでくれたことを今でも覚えている。
  (「開校一〇〇周年記念誌」一三代校長 白石延雄)

 昭和一八・一九年度卒業生
   中川 治重  平野 武雄  武田 義行  久保 静雄
   亀岡 敬一  平野 清春  松本 守昌  大本  健
   道上 重雄  石井 恒義  山口 春雄  井谷 時夫
   福本勇太郎  榎本 皖夏  山本 陽子  岡本 弘子
   久保ツルヱ  井谷 政子  西山 秀美  石山サカヱ
   柳原 勝子  滝下サチ子  松本チヅカ  武本シヅ子
   森岡 政子  水本 久義  泉   清   峯岡 一則
   加野 一雄  武田  勇  成田  公   石田 道都
   福岡 春長  峯本 高義  河内恵美子  今岡百合子
   福岡ミヨ子  下窪シズ子  中村 富子  武本ユリ子
   山本ミヤ子  長井スミ子  上岡 妙子

 三、明治四〇年頃より昭和三三年頃の校舎並びに関係建物の変遷

 当時の校舎は、現校舎の敷地とほぼ同じ場所にあり、桁行二一間、梁行五間の平屋建てで、これを五室に区分し、中央が職員室両側に二つずつの四教室、これに遊具室と呼ばれる一間と三間の小さな付属建物があった。他に運動場西南の隅に小さい校長住宅と六畳の裁縫室を併設したもの一棟と便所の計三棟であった。
 校舎は明治四〇年に建築されたと聞く。村長は奥田石五郎、校長は曽根綱麿、建築委員長は村議の鷹尾寅太郎であった。

 家庭科室の新築
 昭和八年、城戸家家長八代目の城戸庄五郎が建築委員長を務め、建築委員を重藤の谷岡儀一郎とし、運動場の南側に建築された。両者とも町議の時であり、時の町長は玉井浩三、校長は町田福繁であった。

 調理室兼用務員室
 昭和一五年新築並びに便所移転が行われた。建築委員長は町議の宮内栄松、町長は武田嘉四郎、校長は早瀬太良一、後援会長は宮岡正實、工事施行者は福尾頼朝であった。工事費は八二万円であった。

 二階二教室増築
 昭和二一年九月、二学期より学級増となったため、暫定措置として、家庭科室を二分して使っていたが、昭和二三年校舎棟違いとして、二階二教室を新築した。工事費は中山中学校第一期工事と抱き合わせて入札したので明確でない。町長は森平茂左衛、校長は武智温三郎、建築委員長は町議宮岡正實であった。これで六学級全教室が整備された。

 職員住宅建築
 学級増に伴う職員増加のため、昭和二六年に建築した。町長亀本好恵、校長二宮儀平、建築委員長(町議)宮岡正實、町議中村亀五郎であった。
 昭和三一年、校長が専任となった。地区外の先生も多いということで、教員住宅二棟四戸を新築した。これを機会に運動場片隅にあった校長住宅は運動場拡張のために取り除いた。校長城戸友近、工事費八〇万円。

 家庭科室の増築
 学校の諸式や地域の会合等の場合、東側二教室の仕切りをはずして広間にしていたが大変な労力がいるということで、既存の家庭科室と同じ坪数のものを増築した。昭和二八年七月竣工、時の校長枡田貞光、建築委員長(議長)宮岡正實であった。

 校舎本館新築
 昭和三三年三月七日、永木小学校改築の件を町議会で決定した。同時に左記の通り建築委員を選任した。
 委員長(議長)宮岡正實、副委員長(副議長)森岡数栄、委員(文教委員長)松本吉兼、同(建設委員長)松本小三郎、同町議松岡貞治、亀岡荒博、西窪繁明、久保田義政の以上八名。町長亀本好恵、校長城戸友近、PTA会長矢野重實、であった。工事契約金五三五万円竣工期日八月三一日であった。旧校舎を取り除き運動場拡張のため、南側講堂を移転した。新校舎は八月末完成し、一一月二〇日教育事務所、伊予市長、郡内町村長、議長、町内関係者、校下一般多数参列のもと盛大な落成式が行われた。
 PTA会長の矢野重實は、次のように語っている。
 「校舎は老朽化しており、新築の要望がおこり、旧校舎への感謝と、新築の要望とを合わせて、校舎五〇周年の記念祭を実施した。幸い各方面の理解と熱意により、校舎建築の運びとなった」

 四、永木小学校教育の変遷

  ―開校一〇〇周年記念まで―
 簡易プール、校歌制定、校訓碑除幕
 真新しい木造校舎本館が完成し、現代教育への移行期となる。まずプールが必要ということで、昭和三六年に川をせき止めての簡易プールが完成した。その当時の教諭森岡薫明は一〇〇周年誌の中で次のように述べている。
 「当時、中山町内でプールのある学校は唯一校、それがわが永木小学校だから胸を張ったものだ。水泳シーズンともなれば、まず砂のけから始まる清掃、次に少ない水を一滴も漏らさぬようにはめ板でせきをする。このはめ板の具合が悪いとプールにならないから高等技術を要する。雨が降れば降ったで、日照りが続けば続いたで、ましてや台風接近ともなれば大変であった」
 なお、続けて校歌制定、校訓碑除幕について、次のように述べている。
 「校歌の原作は城戸、河内校長と峯本保雄教諭の補作によって昭和四〇年に制定され、この時に校旗もでき運動会にはそれを先頭に堂々の行進をした。校門に厳粛に立つ校訓碑は、篠崎校長の呼びかけで有志の協力を得、校歌の制定に合わせて建立されたものである」

 開校一〇〇周年記念
 明治八年、神渓小学校として創立して以来、一〇〇年を迎えるようになり、昭和五〇年一一月二日に一〇〇周年記念行事を実施した。この事業の中心は『記念誌』の発行により一〇〇年の学校の歴史を明らかにし、後世に残すことであった。また記念碑の建立にあたっては、当時のPTA会長 山田武志を中心として、記念碑の石集めから始め一〇〇年の伝統を形あるものにしたのである。
 時の校長二神正彦は、『記念誌』の発刊のことばの中で次のように述べている。「正門横に移転、造成された池と記念碑台、仕事場で日毎に彫り進められていく一〇〇周年記念碑等の自然石を見ていると、炎天下の七月永木川の石探し以来、物心両面で随分お世話いただいた方々の姿を思い出す。あるときは降りしきる雨の中、体力の限界を越えての難作業もあった。そして集められたこれら大小の自然石によって初めて一〇〇年の昔を偲ぶことができる」

 五、永木地区総合開発計画

 昭和五三年(一九七八)、この年は体育館、運動場、教員住宅、永木農業改善センター等、町当局が文教・産業施設の充実を計画実施した年であり、永木地域の夢と希望のあふれる年であった。
 町長 森平實衞  助役  亀井正哲
 議長 橡木武雄  教育長 市田勝久
 永木地区総合開発委員会
  会長 城戸庄五郎  副会長 金本幸盛・山本弘行
 時の二四代校長 篠崎武夫は、『一二〇周年記念誌』の中で次の様に述べている。「準備等で学校はもちろん地域の方々にも度々ご協力をお願いし、大変多忙な年であった。五四年四月一七日にはすべての施設がめでたく完成し町内外から多数の来賓を迎え、永木地区始まって以来という盛大な落成式・祝賀会が体育館において挙行された。小規模校でバレーコートニ面の体育館が完成したことに他町村は驚き、度々見学や訪問を受けた。この町当局の大英断や地域住民の熱意に敬意を払いたい」

 第二養護学校との交流学習開始
 子供の健全育成の上からも、親子の対話の機会を持ちたいということで、親子ホタル狩りを実施、そのホタルを学校へ持ってきた。峯本教頭の提案でそれを第二養護学校へ送った。大変喜ばれたことから次にはカブトムシを送り、それから交流学習が始まった。
 第二養護学校に送った児童の手紙の中に、ホタルを採りに行くとマムシがいるので恐いと書いてあったので、マムシとはどんな虫ですか、という質問の手紙がきて大笑いをした。(『一二〇周年記念誌』より)

 地域に根ざす教育優良校表彰
 地域に根ざした教育は永木小学校の伝統として引き継がれていたが、二六代校長 白石治徳の時に、表彰を受けた。地域の人々や児童と一緒になって永木の自然や生活を学び、地域の学習を通して故郷永木に誇りを持つ教育を推進していたのが評価されたのである。表彰を受けて、「地域を歩き、故郷に学び、故郷に問いかける学習をより進めていかなければならない」と校長は語った。そういった事で昭和六二年の末には、『我が故郷 ながき――その歴史と生活――』と題して永木の歴史、史跡、地形、産業、生活等を一冊の本にまとめ発行した。それに合わせて、永木案内板も児童の手で作成し、それは現在も教員住宅の横に残っている。
 これらの業績か認められ、同年、教育優良賞を受賞した。
 また、この年には、鉄筋三階建て新校舎の落成があった。

 六、文教施設整備の内容

 1 鉄筋三階建て新校舎落成
 昭和六三年三月三〇日、現在の校舎が完成し、盛大に落成式を挙行した。当時の校長である酒井弘子は一二〇周年記念誌の中で鉄筋三階建て校舎建築について次のように述べている。
 「年度内に校舎落成という緊急事態に対する地域の対応力は鮮やかであった。一週間以内に喜多郡や松山の中小規模の学校や特色ある校舎見学を地元委員や学校関係者で行った。そして、それらを新校舎構想に活用した。
 また、仮校舎への移転の場合も校区の老人やPTA会員がそろって参加し、あっという間に作業を遂行する手際よさであった。」
 翌年コンピュータの導入をし、県下でも屈指の情報教育推進校となった。

 2 永木小学校屋内運動場及び屋外運動場新設工事
 位  置  愛媛県伊予郡中山町大字中山午九七五番地
 敷地面積 四、五八七㎡
 構造規模 鉄筋コンクリート一部鉄骨造平屋建六五〇㎡
 設計管理 株式会社浪速設計事務所
 施  工  株式会社 一宮工務店
 工  期  昭和五三年七月二〇日~昭和五四年三月一〇日
 事業費  一〇三、〇二五千円

 3 永木小学校教員住宅新築工事
 位  置  愛媛県伊予郡中山町大字中山未一六番地
 敷地面積 五六四㎡
 建築面積 二棟建 六戸分 二一八㎡
 構  造  補強コンクリートブロック造り二階建
 事業費   二一、三一三千円
 工  期  昭和五三年九月一日~昭和五四年三月二〇日
 設計管理 有限会社 村上坂雄建築設計事務所
 施  工  株式会社 中岡組
 譲渡者  松山市 公立学校共済組合愛媛支部
 住宅事業方式 投資方式(一五年間)
 用途 世帯用 一棟二戸  九九・一九㎡
     単身用 一棟四戸 一一八・八一㎡

  (事業費内訳)
 建築工事費    18,200千円   
 用地費及び造成費 2,663
 事務費          450
 計            21,313

永木小学校校舎改築事業概要

永木小学校校舎改築事業概要


永木小学校屋内運動場及び屋外運動場新設工事

永木小学校屋内運動場及び屋外運動場新設工事


永木小学校屋内運動場平面図

永木小学校屋内運動場平面図


永木小学校年表 1

永木小学校年表 1


永木小学校年表 2

永木小学校年表 2


永木小学校年表 3

永木小学校年表 3


永木小学校年表 4

永木小学校年表 4


永木小学校年表 5

永木小学校年表 5


永木小学校年表 6

永木小学校年表 6


永木小学校年表 7

永木小学校年表 7