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中山町誌

二、 若衆組から青年団へ

 明治以前から「若者組」とか「若連中」「若衆組」とかいう若者の集団が全国各地に作られていた。本町にも存在していたと思われるが、それを示す資料は見つかっていない。町外各地に残っている資料によると、若衆組に加入するのは一五歳~二五歳くらいの男子未婚者で、結婚すると脱退した。若者たちは若衆宿を決め、年長者のボスを中心として封建的人間関係のもとに強く団結していた。
 主な仕事は、神社の祭礼行事の奉仕、芝居・盆踊り・相撲の行事の開催、医者の送迎、道路・田畑の改良工事、夜警・盗難の取り締まりなどで、地域社会のためによく尽し、その存在価値は大きかった。
 しかしながら、明治四四年(一九一一)の梅花婦女会の申合規約の中にも「従来の若衆組と気脈を通ずることは断然廃止すべし」「夜間若衆を宿泊せしむる旧習を全廃すべし」「盆踊角力等の催し有るときは決して見物に行くべからず」とあるように風紀上問題もあった。
 そこで弊害を除き青年の健全育成と知識の向上を目指して、明治一七年(一八八四)頃から各地に青年会が誕生していった。
 本町においても中山村では、明治四三年二月から会員を集めて、同年一〇月中山村青年会の結成総会を小学校で開催した。当時会員は四七三人であり、一九の支部を設け、支部長を定めた。会長には当時の村長豊谷大治郎が就任した。
 佐礼谷村ではそれより一年早く明治四二年九月結成され、当時の会員は九〇人であった。初代会長には村長稲垣熊太郎が就いた。
 その後青年会は盛んになり、団体労役に励んだり、夜学を開いたり、団体旅行や演説会・討論会等を行い、風紀の刷新と学徳の研修に努力した。
 年号が明治から大正に変わる頃になると、益々青年会は発展し、大正四年、内務・文部両省で訓令が発せられ、青年団体の方向づけが行われた。名称も青年会から青年団に改められ、修養機関として活動を展開していった。
 名称が青年団に変更されると同時に、中山村では中山校区を第一分団、野中校区を第二分団、永木校区を第三分団とし、中山村青年団長に亀岡浪吉(旧姓森井)が就任した。
 主な行事としては、研修会、勤労奉仕、町有林の下刈り、討論会、演説会などが行われた。研修会では一夜講習会といって、お寺などに青年が集って講師の話を聞いたり、出石寺に一週間泊り込んだりして研修を行った。
 特に青年団において関心があったのは演説会であった。五分間演説などといって雄弁になることが青年の夢であった。内子・大瀬などの青年団と合同の弁論大会も行い、年二回開催される伊予郡連合青年団主催の弁論大会を目標に、日夜弁論の術を磨き合ったものである。
 佐礼谷村では大正一〇年(一九二一)頃、佐礼谷村青年団が結成され、初代団長に篠崎重通が就任した。行事内容はほぼ中山村と同様であった。
 大正一二年頃、中山村においては夜学会を部落で行っていたが、各学校に統一し、各支部長を中心に多数の青年が学習に励んだ。当時の会員数は約五〇〇人にのぼった。
 全国組織として大正一〇年に「大日本連合青年団」が結成された。本県にも同一五年に「愛媛県連合青年団」が設立され、昭和二年に第一回大会が開催された。
 昭和六年満州事変勃発以来、青年団活動も次第に戦時色が濃くなり、青年団加入も義務的になって、農村の青年はほとんど団員として社会的訓練を受けるようになった。
 昭和一二年(一九三七)七月、日中戦争勃発後は戦時体制が強化され、従来の活動から団体訓練や剣道・相撲等体力・気力の練磨と興亜奉公へと力を注いでいった。
 昭和一二年発行の「佐禮谷村報」一二月号の青年団便りによると、一ヶ月に次の様な行事を行っていて当時の様子が偲ばれる。①郡連演武大会に十数名出席 ②戦死者の出迎え ③国防献金納付 ④入営者送別会出席 ⑤三日間の防空演習に全員参加 ⑥戦地へ送る梅干収集 ⑦入営者を犬寄まで見送る ⑧松前小での県連主催の支部長会に七名出席。
 日中戦争から大東亜戦争へと戦争が拡大した昭和一六年には、青年・女子青年・少年の団体を結合して全国的に「大日本青少年団」が結成され、本県でも同年結団式が行われ、銃後奉公態勢が強化された。
 本町においては、中山・佐礼谷両地区とも同年四月、当時の町村長が青少年団長になり、一翼である青年団は青年学校長が団長を兼ね、官制の青年団となり戦時体制に突入していった。
 当時の青少年団の行事としては、暁天動員・武運長久祈願の参拝・食料運搬・戦没軍人の墓地清掃・遺家族傷痍軍人に対する支援協力・出征軍人に対する慰問激励等を実施した。青少年団員は青少年勤労報告隊、女子挺身隊として、軍需物資や食料増産のために動員された。
 昭和二〇年八月一五日、第二次世界大戦は終わり、大日本青少年団は解散した。