データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

四、 勤労青少年教育の移り変り

 若者にとっては、青年団・女子青年団等の組織に所属することで社会の一員としての修練を積むことが大切な学習であった。しかし、その他に一般教養や職業教育を身に付けるための教育も必要と考えられ、そのための教育制度が次々と作られていった。
 わが国の勤労青少年教育制度は、主として義務教育の補習教育の見地から明治以来国家的問題として取り上げられ、実業補習学校-青年訓練所-青年学校と発展し、昭和一四年青年学校の義務制の実施によって充実強化された。
 『佐礼谷青年学校沿革史』によると、明治三六年農業補習学校としてスタートした時点では、限られた一部の人が、仕事の時間を削って夜学に通い、短期間学習していただけであったが、次第に強化充実された。特に青年学校期には制度が確立され、社会教育というよりも学校教育的な様相に変っていった。そして終戦後、学制改革により新制中学校が発足する母体となったのである。

 (1) 実業補習学校
 明治政府は明治二六年「実業補習学校規定」を定め、同三二年の「実業補習学校令」によってその振興を図った。小学校卒業生を対象に、青年男女の教養を高め、かつ職業教育を施した。その教育には昼間と夜間の両制を備え、地方の実情に則して、農業・商業・水産業のうち一科目を主体として教育した。
 本町では、佐礼谷村において明治三六年に農業補習学校が尋常小学校に併設されて発足している。尋常四年を終えた者がその対象で、授業時数はおよそ週一五時間前後、入学者は三名でうち二名が修了している。教科書は国語(改正公民読本)・算術(小学算術)・農業(初等農業教科書)であった。
 当時の記録から規約をここに紹介する。
 明治三七年には教科書として高等小学読本(文部省)・高等小学書方手本・小学算術(学海指針社)を使用している。
 同三九年には小学校に高等科が設置されたため農業補習学校はいったん廃止された。
 大正三年に復活し、学級は甲乙二組で、教科書は修身・国語・算術・農業であった。
 大正六年(一九一七)には実業補習学校と改められ、女子部が設置された。
 同一〇年には再度農業補習学校となり、前後期各二年の修業年限、教科もさらに美術・体操・唱歌が加わり、生徒数も男五五名・女二一名と増加した。
 大正一一年(一九二二)に研究科を設けると七名の入学者があった。出席の良い部落には副賞としてローソクや提灯を授与している。夜学時代としての当時の様子が微笑ましく偲ばれる。
 中山村では、明治四四年一〇月に中山実業補習学校が尋常高等小学校に併設された。教員は小学校の教員が兼務していたが、やがて専任教員も配置された。また大正一〇年に実業補習学校の改正が行われると、修業年限が実状に応じて変っていった。

 (2) 青年訓練所
 青年訓練所は独立した教育機関ではなく、実業補習学校の中に組み込まれて併設されたものである。
 第一次世界大世後、時代の要求に基づき大正一四年に中等学校(男子)へ現役将校を配属する制度ができた。
 大正一五年(一九二六)青年訓練所令の公布があって、青年男子を一六歳より二〇歳まで四年間にわたって教育訓練することになった。
 中山青年訓練所は実業補習学校と共に小学校に併設され、大正一五年六月二四日に認可された。七月七日入所式が挙行され、九七名が入所した。教科目は、修身公民科・教練・普通学科・職業科で、教練(軍事教育)は在郷の将校又は下士官が指導した。特典として青年訓練所の修了生は二年の軍務の現役期間が一年半に短縮された。

 (3) 青年学校
 昭和六年(一九三一)満州事変勃発以降、我が国の大陸政策は進行し、軍閥政治の時代になるにつれ、青年に対する軍事教育はますます重視されるようになった。
 昭和一〇年(一九三五)四月に青年学校令が公布され、既設の補習学校・青年訓練所を廃止し、同年七月統合して青年学校が設置された。七月三日に中山町立中山青年学校開校式が挙行された。
 昭和一四年から義務制となって、男子は服装も軍人に準じ、執銃教練や野外演習等、年を追って軍事教育は盛んとなった。毎年一回現役軍人である査閲官による厳格な査問が実施された。
 終戦後、昭和二一年に改定され、本科が三年になり、その上に専修科がおかれた。
 昭和二二年の六三制実施により、新制中学校が設立され、青年学校は廃止された。
 「佐礼谷青年学校沿革史」の年度末の記事より終戦直後と青年学校終りの年の所感を次に掲載する。

     昭和二〇年度
 意義アル二十年敗戦ニヨリ本然ノ姿ニ還リ再ビ第一歩カラ踏ミ出スノダト言ハレル再建ハ先ヅ教育カラ 教権ノ確立ト共ニ教育本來ノ目的ニ邁進スルコトヲ要求サレル
     昭和二一年度(青年学校終りの年)
 敗戦第二年目 新日本建設ト相待ツテ文化國家建設ニ依リ學校教育 國民の社會再教育ニ拍車ヲ手掛ケルヲ以テ本年度ハ本科一年生ハ通年制授業ヲ實施シ其成果至大ナルモノアリ

 永木・野中校においても中山校に先がけて補習学校が設置された。永木には明治三八年に、野中には明治四二年に発足している、現存している中山村村勢一覧表等による大正時代の生徒数等の情況は表3-3のとおりである。

表3-1 修業年限の移り変わり

表3-1 修業年限の移り変わり


表3-2 青年学校修業年限

表3-2 青年学校修業年限


表3-3 補習学校等の員数の移り変わり

表3-3 補習学校等の員数の移り変わり