データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

五、 愛国婦人会から大日本婦人会まで

 明治三四年(一九〇一)三月、日本で初めての全国的なまとまりをもった婦人団体として大日本愛国婦人会が中央に結成され、本県にも同年に愛媛支部が発足した。知事夫人が会長となり、婦人の教養の向上と救護活動が目的とされた。
 本町においては中山・佐礼谷両村で、明治三六年・三八年頃それぞれ愛国婦人会が結成された。
 明治四三年には中山村永木に梅花婦女会が結成され、結成当初から戦後に至るまでの克明な記録が残っている。その記録からは、婦人会の時代による移り変わりや、変わらない本質的なものがよく窺える。
 それによると、当初は発起者の永木尋常小学校長が顧問となり、会長は須原クメヨ(当時教員)で、会員は五二名、目的は婦女子の啓蒙となっている。
 活動内容は女子の心得に関する講話を中心に、礼儀作法や裁縫・料理の実習他、時には蓄音機で音楽を聞いたり、福引のお楽しみも取り入れたりしている。
 指導者としては永木の小学校校長及び教員・社寺の神主や住職・地元有志・中山村長その他多くの人が当たっている。
 大正時代になると少しずつ自主的な活動がみられるようになる。
 大正二年(一九一三)以後、会員が交替に考見を発表する機会が作られ、「昔話」「松山城見物」「農業の必要について」などの題目で自分の考えを述べている。また、手芸品の展示なども試みられている。さらに大正九年には今の敬老会の前身とも思われる青年・処女・婦人会の共催による高齢者を歓ばせる会「尚歯会」を開催している。
 全国的には大正一〇年(一九二一)頃から地域の婦人を網羅する形での婦人層の組織化が進められようとしていた。しかしまだまだ和やかな時代であった。
 昭和六年(一九三一)満州事変勃発後、同七年に軍部の要請により「大日本国防婦人会」が生まれた。その目的は「挙国皆兵の精神に基づき、日本婦徳を発揮し、日本婦人としての護国の大義を実践履行し、国防上銃後の力となる」と定め、戦争協力団体として活動を開始した。本町においても昭和一一年(一九三六)国防婦人会中山分会・同佐礼谷分会が結成され、初代会長に中丸マキノ・西岡リウがそれぞれ就任した。
 昭和一二年(一九三七)日中戦争が始まり、その事態に対応する国策に協力するため、婦人会は挙げて出征兵士の見送り、武運長久の祈願、慰問袋や千人針の作製、出征軍人宅への勤労奉仕等、日夜白エプロンにモンペ姿で活躍した。
 昭和一七年(一九四二)二月、全国の愛国婦人会、大日本国防婦人会その他を合併し、一元的に組織化して「大日本婦人会」が誕生した。同年、本町にも「大日本婦人会中山分会」・「大日本婦人会佐礼谷分会」が結成された。
 この合併について梅花婦女会誌には次のように記されている。
 「明治四三年、永木校長曽根綱麿先生の発起のもとに、-中略-産声をあげ、昭和七年城戸義孝氏霊力され、此永木校下四区に役員を改めて置き、其後益々盛会ならしめ、本年までに計三三ヶ年間継続せし居りし梅花婦女会を、昭和一七年、(中央において)三団体婦人会合同し、日本婦人会と改められたことにより、中山町婦人会の支部と改名する事になった。」
 梅花婦女会創立時から婦人会長を務め、会を育ててきた須原クメヨにとっては耐え難い通達であった事だろう。
 戦局は日増しに激しさを加え、男子は戦場に動員され、女子が家を護り、子供を育て、郷土を護る者としての役割を担う立場となった。二〇歳以上の婦人は強制的に加入させられ、「銃後の華」と讃えられて勇しい活躍をした。
 昭和一九年(一九四四)頃からは、バケツリレーによる防火訓練、防空壕掘りに参加、婦人軍事教練、竹槍訓練も指導される等、本土決戦に備えたが、昭和二〇年八月敗戦により組織を解体した。