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中山町誌

一、 戦後の社会教育のあゆみ

 昭和二〇年(一九四五)第二次世界大戦の敗北は、社会のすべてにわたって大きな変化をもたらした。戦時中から続く物資の不足や、戦後のインフレによる極度の耐乏生活に国民は困窮し、また、終戦による価値観の一八〇度ともいえる転換に疲れきっていた。そんな中で唯一える転換に疲れきっていた。そんな中で唯一の救いとなったのは解放感だった。生命の危機や言論の抑圧等からの解放感をエネルギーとして徐々に世の中に活気が生まれてきた。
 当時、中山町では、戦時中から続いていた疎開者や復員軍人、海外引揚者による人口増加が著しく、旧中山町だけでも人口が一万人以上だった。佐礼谷村も二三〇〇人を越えていた。従って若者の数も多く、その勢いは、自主的・自発的活動を促し、昭和二〇年のうちに、新しい青年団が両町村に発足した。
 同年一二月には婦人会も発足した。
 昭和二一年から二二年にかけて、第一次・第二次アメリカ教育使節団が来日し、教育全般にわたり改革が勧告された。公選の教育委員会制度、六・三制など戦後の日本の教育が方向付けられた。また、成人教育、社会教育の重要性を強調し、PTAの結成を勧奨した。
 昭和二三年頃中山・佐礼谷両町村にPTAが作られた。
 昭和二四年(一九四九)六月一〇日社会教育のよりどころである社会教育法が誕生した。
 この法律では「社会教育」とは、学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクレーションの活動を含む)をいうと定義づけられている。
 また、同法では「社会教育関係団体」とは、法人であると否とを問わず、公の支配に属しない団体で、社会教育に関する事業を行うことを主たる目的とするものをいう。具体例として①青年団・少年団、②YMCA・YWCA、③PTA、④図書館を設置する民法三四条に規定する法人、⑤日本リクリエーション協会、⑥公民館連絡協議会、⑦以上に類する団体を挙げている。
 この法律によって公民館は法的根拠を得、また関係者の熱意と努力によって急速に設置が進んでいった。
 本町においても昭和二四年に、中山・佐礼谷両町村に初めての公民館が設置され、以後、青年団・婦人会・公民館が三者一体となり、戦後の社会教育を担った。
 昭和三六年スポーツ振興法が制定され、社会体育が明確に方向付けられた。
 昭和四〇年、町民の以前からの願いであった公民館の新築に着工し、翌四一年七月落成した。これによって、公民館が社会教育の中心として重要な地位を占めることが一層確実になった。
 昭和三〇年代から四〇年代にかけての社会情勢の大きな変化の一つに、高齢化社会の兆しが現われ始めたことが挙げられる。その上に農村においては、青年の都市流出が拍車をかけ、過疎化の問題が深刻になってきた。
 昭和四〇年一一月、永木校下に町内で初めての老人クラブが誕生した。その後続々と各校下に結成された。
 若者の減少化の傾向が始ったとはいえ、まだまだ若者が活躍した時代で、四〇年代も社会体育が盛んに行われ、特にソフトボールや軟式庭球で好成績を挙げている。
 五〇年代には社会教育に関係のある施設が相ついで設立された。
 昭和五〇年(一九七五)二月に「老人憩の家」が門前に、同年九月には町民運動場が下長沢に作られた。五四年二月には農村勤労福祉センター(体育館)が町民運動場の隣に落成。同年七月には集大成ともいえる農業総合センターが泉町三丁目に竣工した。
 この頃から物質的な生活の豊かさは比較的充たされるようになったが、その反面、自己本位的な考えの広まりが心配されるようになってきた。それを受けて、公民館の基本方針も、生涯教育を通じて豊かな人間性の育成・心のかようふるさとづくりが必要であると提唱している。
 昭和六三年(一九八八)四月に中山町文化協会が結成され、同一一月に第一回文化祭が開催された。
 平成五年度における本町の社会教育は上記のように計画実施された。

図3-1 中山町の昭和30年を100%とした人口減少率

図3-1 中山町の昭和30年を100%とした人口減少率


社会教育重点目標及び主要施策

社会教育重点目標及び主要施策