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中山町誌

六、 社会体育の発展

 ここでいう社会体育とは、学校体育を除くスポーツ一般についてであって、慣習的によく使われる伊予郡社会体育大会を指している「社会体育」という狭い意味ではない。
 戦前にも、現在の社会体育に該当するものとして、中山町では、剣道・すもう・テニス等が熱心に行われていた。しかし、一部の限られた人たちのものであり、現在の愛好家数の多さや種類の豊富さとは比べものにならない。
 戦後まもなく、運動場は戦時中の食料増産のためのいも畑から本来の姿に返ったが、運動の施設・設備は皆無であった。そんな中でも青少年たちは徐々に運動の楽しみを求め、手作りの道具を工夫したりしながら、あまり道具のいらないスポーツや遊びに親しんだ。公民館も体位体力の向上を願い、青年団の結束にも役立つと考え協力した。昭和二七年(一九五二)には第一回中山町体育大会が開催された。中山町報第六号に次の様に記されている。
 「昭和二七年五月五日、中山町青年団・公民館共催による初の体育大会が挙行された。競技種目は支部対抗駅伝競争と分館対抗のバレーボールの試合であった。駅伝競争は中山-登立(内子町)間往復一二粁を一チーム四名編成で、九チーム参加し、一位は梅原支部たった。バレーボールの優勝は男子が野中分団、女子が中山分団だった。」
 翌二八年、愛媛県では、大きなイベントである国民体育大会が開催された。
 この頃から公民館の奨励もあり、バレーボール、ソフトボール、庭球、卓球などが熱心に行われるようになっていった。
 昭和三五年及び三六年に、各支館(現在は地区公民館)において第一回町民運動会が開催された。その時の熱意ある様子を公民館報「なかやま」から一部転載する。
 「中山支館内第一回町民運動会は昭和三五年八月五日、中山中学校グラウンドで、少年・青年・婦人・老人と約二、〇〇〇人の参加をもって、誰にも遠慮することなく自分の思うまま一生懸命技を競い、予想以上の盛会の下に午後五時半閉会した。
 佐礼谷支館では三六年一〇月一九日第二回町民体育大会が実施された。本大会も昨年より一段と和やかで、しかも厳粛な大会となり、出場者数も延べ九八六名という大勢で、最早住民と完全に結びついてきつつあることは非常に喜ばしい。
 永木支館では三六年一一月三日に公民運動会の第一回が盛大に行われた。そして閉会式の時、支館長が来年度もこの様な運動会をやってはどうかと提案したのに対し、全員異議なく賛成し、早くも来年度の事まで決まってしまった次第で、地域の住民のこの運動会に対する熱意の程が窺えると思う。
 野中支館では昭和三六年一一月二六日に野中公民祭が催された。住民総出の公民運動会が農産物の品評会や映画会と共に行われた」
 このように年々スポーツに対する熱意が高まる中、昭和三六年(一九六一)「スポーツ振興法」が制定された。その目的は「スポーツの振興に関する施策を明らかにし、もって国民の心身の健全な発達と明るく豊かな国民生活の形成に寄与すること」である。振興のための措置として、スポーツ行事の実施や奨励、指導者の充実、施設の整備等が挙げられている。
 スポーツ振興法の制定に伴い、本町でも三六年四月一日付けで体育指導員が任命された。
 初代の体育指導員は、松浪不二男・升田章・泉磯男・鶴岡光雄・植田好弘の五名であった。その任務はスポーツの実技の指導その他スポーツに関する指導助言を行う事で、現在も引き継がれている。
 スポーツ振興法制定後、本町でも体育施設が次々に設置された。
 昭和四二年(一九六七)野中小学校に町内初のプールが造られ、続いて四三年度中には各校区に設置された。四四年には第一回中山町内小中高校合同水泳大会が開催された。
 昭和四七年、中山中学校運動場に夜間照明施設が取り付けられたのをはじめとして、四八年度には佐礼谷小学校、五四年度に永木小学校、五九年度に野中小学校のグランドに設置された。これらは特にソフトボール愛好者たちに利用され、地区チームを編成し、親善試合を行い、ソフトボール熱を高めた。
 かねてより要望の高かった町民運動場が、昭和五〇年三月に、中山地区と佐礼谷地区の接点である下長沢に完成した。五三年一二月には運動場に隣接して、体育館(農村勤労福祉センター)が竣工した。五六年八月には門前テニスコートが竣工した。
 この様に充実した設備の中で社会体育は大きく伸長・発展した。
 今までに次の様な好成績を挙げている。
 全国規模で活躍している中山町出身者を挙げると、昭和四八年(一九七三)に雨宮真理子(旧姓北野)が和歌山国体の女子ソフトボールでチーム優勝を果した。雨宮は中山中、今治明徳、大和紡とソフトボールを続け、入社二年目に国体優勝を遂げた(『愛媛雑誌』名選手事典より)。又、四九年、宮野篤夫が全国高校軟式庭球大会のダブルスに新田高校から出場して優勝し、地域の若者たちに夢を与えた。
 昭和五二年(一九七七)に中山町スポーツ少年団が発足し、現在も活発に活動している。
 スポーツ少年団は、小学校四~六年生の希望者を対象に、土曜日の午後活動している。スポーツ活動を通して、発育期の子供達の心身の健全な発達を図り、明るく逞しいスポーツ少年の育成を目的としている。
 この頃より、町内では高齢者のスポーツとして、クロッケーやゲートボールが普及し始め、年を追うにつれ、愛好者が増え盛んになった。町内各地域で、寺社の境内や空き地を利用して練習に励み、高齢者の体力づくりと親睦の場となった。また、郡・県への試合にも参加して好成績を収めている。
 昭和五七年(一八九二)一月二十三日、中山町体育協会が発足した。(初代会長 橡木武雄)
 体育協会設立は、数年前からスポーツ愛好者の間で強く望まれており、前年から体育協会設立準備委員会がもたれ、昭和五七年に創立総会が行われた。以来、中山町の地域に合った活動を展開し、中山町の社会体育の発展に寄与している。
 体育協会の設立により、昭和五八年度以後の中山町社会体育事業は、次の様に、公民館主催と体育協会主催に分けて実施されるようになった。
 この様に中山町社会体育は、少年から高齢者まですべての住民が参加する生涯スポーツの推進を目標に掲げて実施計画を立てている。
 平成五年度の構想及び活動は次のとおりである。

表3-11 青年大会記録

表3-11 青年大会記録


愛媛スポレク記録

愛媛スポレク記録


表3-12 昭和58年度 中山町社会体育事業計画

表3-12 昭和58年度 中山町社会体育事業計画


表3-13 昭和58年度 中山町社会体育事業計画

表3-13 昭和58年度 中山町社会体育事業計画


表3-14 平成5年度 中山町社会体育推進機構及び活動

表3-14 平成5年度 中山町社会体育推進機構及び活動