データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

一、 沿革

 今からおよそ二、五〇〇年前、苦行一二年の末尼蓮禅河の水で身を浄め、仏陀伽耶の菩提樹の下で冥想禅定に入り、三〇歳の一二月八日転迷開悟を得た釈尊(紀元前五六〇~四八〇年頃、諸説多し)が興した仏教は、その後一、〇〇〇年の永い時をかけてアジアを北上、中国・朝鮮を経て日本へ伝教された。
 欽明天皇一三年(五五二)、百済の聖明王が仏像・経典を朝廷に献上したのが日本仏教史の始まり(五三八年の説もあり)とされるが、それ以前にも帰化人の間で信仰され、仏教の受容をめぐって蘇我・物部両氏の間に争いが起ったことは歴史の記すところである。
 五八七年、用明天皇は病のため仏教に帰依、反対した物部氏は、聖徳太子らに滅ぼされてしまう。以後太子はより一層崇仏の方針を強め「一七条憲法」にも篤敬三宝の条文をもり込み、仏教を政治の根幹とし、仏教国家としての礎を築いた。そして鎮護国家の宗教として、天皇・貴族の保護の下、次々と寺院(国分寺)が建立されていった。
 奈良の都には、南都六宗即ち、三論・法相・成実・倶舎・律・華厳の六宗が興ったが、全体的には依然祈祷的仏教の色彩が濃厚であった。
 奈良仏教に対して平安仏教の特色は、山岳仏教であった。最澄の天台宗、空海の真言宗が開創され、いずれも鎮護国家を標榜し、新しく日本的な色彩を帯び興ってきたが、これらは、いわゆる貴族仏教として国家や貴族の保護の下に栄えた。
 本町でも、奈良朝天平一三年(七四一)に行基によって、盛景寺の前身玉屏山柏林寺が興り、平安時代末期寿永二年(一一八三)には浄光寺の前身寿永寺が天台、真言宗の寺院として開創されており、中央から遠く離れて地方栄族との関係によるものや、ようやく開拓居住を始めた住民の心のよりどころとして興ったものと思われる。
 その後、平安末期から末法思想が盛んとなり、貴族仏教にあきたらず一般民衆が入りやすく分りやすく説かれた浄土教思想が普及し始めた。
 貴族仏教(奈良仏教、平安仏教)に対して、鎌倉仏教は、大きく浄土系、禅系、日蓮系に分けることができる。
 法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗が念仏を一般化させた。次に禅では、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗がある。日蓮は、「法華経」に絶対帰依する日蓮宗を興している。
 また、叡尊の真言律宗、高辨の華厳宗もこの頃である。
 南北朝時代から江戸時代に入るまでの約三〇〇年間は、宋文化の移入によって禅家の間から五山文学が興り、文芸に影響することが大きかった。
 また、一向一揆、法華一揆など社会経済面での信徒の結束も強まり庶民の間に浸透した。
 安土桃山時代以降の仏教は信仰と気力を失ない、政争と政略の具となり戦禍の中に衰微の一途をたどる寺院が多かった。南北朝時代の戦禍は本町においては比較的軽微であったが、戦国時代には土佐の長曽我部の伊予侵攻があり、その被害は甚大で本町寺院でその兵火にかからないものはなかった。各戦乱のたびごとに地方勢の一拠点としての寺院は戦禍を被り衰えていった。
 一方、庶民の信仰はどのようであったろうか。ほとんど資料がないが、盛景寺文書の一節より察するに、地方豪族からの支援が絶えた後、地域内の信心の檀信徒達の助力によって細々と維持されていった寺院の有様が窺える。
 寺院の持つ大きな伽藍や経済力は、百姓達にとって畏敬の的であったと思われ、その背景たる地方豪族や武士に対しては畏伏したことであろう。そして、打ち続く政争の中であきらめやまじないの信仰にはかない満足を感じていたであろうことが想像される。
 江戸時代に入ると間もなく確立された封建制の中にあって、仏教は従来の在り方とは全く様相を異にしてくる。即ち、徳川幕府のキリシタン禁制、追放の政策上仏教が保護されながら、他方寺院法度などによって圧制の枠の中に入れられ、民衆もその帰属を強制された。「信仰の自由」が全くなくなり、しかもそれが様々に形を変えて繁栄したところに江戸時代の仏教の特色がある。
 幕府は、慶長一七年(一六一二)キリシタン禁止令の公布に伴ない、寺院に本寺と末寺の制度を厳密に規制し、寺院はすべて寺社奉行の管轄下に置き、「寺請証文」などを発行する幕府の一機構的存在としての役割を果すため、寺院の中央集権をねらって本寺の権力を強化し末寺を無力化して、本寺に従属させて一本化を図った。
 また、幕府は「檀家制度」を定めて、民衆を一人残らず職業階級に関係なく、いずれかの寺院に仏教徒として登録されることを強制し、一度登録されると容易に改宗を認められることはなかった。その名簿である「宗門人別帳」を寺社奉行へ差出させている。
 仏教寺院では、宗門改めによって登録された人々に対し仏教徒に相違ないことの身分証明書を発行した。
 また、キリシタン教徒でないという証明も寺院からもらわなければならぬという「寺請制度」「寺請証文」と呼ぶ制度を作ったり、檀徒に移動があった時には、今までの檀那寺から相手の寺院宛てに「宗門送り手形」或は「宗門請手形」が発行された。
 寺院はこのように徳川幕府の支配機構の末端組織となり、宗門取締りにからんで戸籍権、警察権さえ付与され、絶大な権威を持つようになった。本町でも各寺ともに大洲藩の管轄下にあり帰依と保護を受け、代官、庄屋などもこれにならい崇敬の念を表している。
 民衆とのつながりも、強制的制度の下とはいえより深くなり、緊密な檀家関係の下に葬儀、法要をはじめ地蔵講、観音講、大師講、心経講、龍王講、詠歌会などの各種講その他の宗教行事を通じて仏教はより深く民心にくい入っていた。今に残る数々の仏教的風習は、いかに仏教が根強く大衆の中に浸透し、かれらの人生観を指導してきたかを示すものである。
 このようにして、江戸時代の仏教は大きな役割を果してきたが、反面為政者の疵護に甘え本来の宗教的使命を忘れ、寺院は真の意味の信仰の場としての意義を失ない腐敗する傾向もあった。しかしながら、寺院法度の規制を受けて本末関係は強化され、本山に対して地方寺院は絶対服従させられたことや、寺院の屋根葺替、修繕普請などの諸手続きにさえ長々とした連署の申請書を要していることを見ても、寺院もまた民衆同様にある面では封建制度の枠組みにあったともいえる。
 さて、明治に入って仏教はかつてない受難の時代を迎えた。明治元年(一八六八)太政官発布の神仏判然令(神仏分離)が誤解されて、復古主義者による廃仏毀釈の大事件をもたらした。そのため予想外の衰退廃寺のやむなきに至った寺院も多かった。この間にも仏教の改革を企図するものも現れ、海外の新思想を摂取して近代仏教へ脱皮しようとの動きもみられた。
 幸いに本町においては、廃仏毀釈による極端な寺院の打ち壊し、廃寺などの動きはなく、檀信徒の奉仏崇祖、仏教護持の念がいかに篤かったかを物語っている。
 明治六年(一八七三)、キリスト教に対する秀吉以来の禁制も解かれ、全ての宗教が自由に活動・布教することが出来るようになり、既成仏教各宗に対して新しい時代に生きようとするいわゆる新興宗教的な新宗教が興り始めた。
 特に仏教研究の進歩は目覚ましく、既成仏教各宗はこぞって教学に力を入れるようになった。
 しかし、終戦前まで戦時色濃い挙国一致の国是の下、平和主義の仏教界も残念ながら不戦を説くことが出来なかった。本町寺院も戦争にまきこまれた不安な世相の中、民心安定のための社会教化に努力した。
 戦後昭和二〇年(一九四五)民主主義時代の到来、社会教育の重要性が叫ばれ、公民館活動、新しい時代の青少年・婦人の指導強化に寺院も大いに協力した。
 戦後の思想混乱と農地改革により地方の寺院は明治の廃仏毀釈以来のかつてない大打撃を受け、その経済的基盤を失なってしまった。しかし、寺領や権威を失ない、相対化されたからこそ、かつての長い間の拘束より離れ、今だに残る因習から脱して、仏教本来の自由・絶対平等に徹し、慈悲心を掲げ、衆生とともに歩む、真の宗教活動が期待されている。