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中山町誌

二、 神社沿革

 源頼朝による鎌倉幕府の成立(一一九二)から戦国末期に至る期間の中世封建時代は、ヨーロッパ中世の封建時代と相似た社会構造を持った時代で、後の江戸時代と共に通常日本においての封建時代とされている。
 幕府の創設者である源頼朝は、その人個人としても大変な苦労の末に天下を収めたのであるから、敬神崇拝の念はまことに篤かったと思われる。それ故、神事の興行は平安末期以来の混乱に乗じて軽んじがちになった武士の社領に対する考え方や乱れを警め、その安全堅固を図り社寺の申請に応じて社殿の修造をし、幕府に対する諸社・社家の信望を集めた。源家三代を継承した北條氏も、頼朝によって樹立せられた根本方針を厳守した。即ち、貞永元年(一三二二)に定められた御成敗式目(貞永式目)で次のように述べている。

 一、神社を修理し祭祀を専らにすべき事
  右、神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う。然れば、即ち恒例の祭祀陵夷を致さず、如在の礼奠怠慢せしむるなかれ。……

 この教訓的内容は、広く配下の武家に信仰生活の指導原理を示し、神社行政の原則を明らかにした宣言でありこの精神は長く室町・江戸と封建武家時代を厳重に守られたのであった。
 明治元年『太政官発布』という大変革時代となり、神社は国から特別の待遇を受け、よき時勢を迎えることになる。明治政府は神社に対し国家的な儀礼を執行し、国民道徳の普及向上を図り、神仏習合は禁止されることになり、一般の宗教とも切り離す立場に至った。今までの神社と寺院の混淆を改め、国家制度として神社を確立させようとした。また明治政府は神社に社格を定め、官幣大社・国幣大社・別格官幣社の制度とともに、地方では県社・郷社・村社・無格社の格付けが行われ、本町もこの制度が定められた。無格社は明治末期になって郷社や村社に合祀され廃止となる。これには、神社の尊厳維持ということにも関係があったように伝えられている。
 昭和二〇年(一九四五)の太平洋戦争終結とともに、神社は今までにない大異変を経験することになった。神道指令と呼ばれる覚え書きが発せられ、政教分離の原則が至上命令として示された。これによって神社は国家の管理から離れ、援助を絶たれ、一切のつながりを禁止された。
 ついで昭和二一年に、神社は宗教法人令によって法律上、政教の分離となり、神社経営はすべて責任役員と氏子崇敬者の奉仕によるものとなった。戦後の荒れた世相、人心が動揺している時期にあって、一般に神社も荒廃の傾向にあったが、その後暗黒の敗戦期を抜け出すと、経済的に安定の兆しも見え、神社も以前のような活気を取り戻した。本町においても小・中学校の祭礼当日の休日を設け、秋の祭礼に参加し、神輿・獅子舞・子供角力・その他神楽・舎儀利などの神事や行事に参加し、昔の盛大さを復活・持続できるようになり今日にいたっている。
 本町には氏神が五社あるが、その中の四社までは三島神社であって、主神は大山積大神が祭られている。当地と三島神社との関連について考察してみると、伊予国と三島神社との関係は古代から深かったように思われる。『延喜式神名帳』に「摂津国(大阪府)島下郡に三島鴨神社あり、後摂津国より伊予三島に遷し奉る。伊予国越智郡大山積神社是なり」(釈日本紀所引伊予風土記)とあり、また「山の神、名は大山津見神」(『古事記』)とあり、「山の神等を山祇と号す」(『日本書紀』)とあって、山神であると同時に海神としての神徳を兼備、鉱山・林業は言うまでもなく農業神として信仰を集めている。このように山神・海神とあるところからみると伊予国と三島神社との関係は深かったようである。現在、全国で一万〇三二六社が大山積大神を祀る神社となっている。

図4-1 中山町神社分布図

図4-1 中山町神社分布図