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中山町誌

七、 藤縄の森三島神社

 鎮座地 中山町大字中山午一七〇番地-一
 祭 神 大山積神、高おの神、雷神、相殿奉斉数神
 例 祭 一〇月一七日
 氏 子 五〇〇戸 中山町大字中山全域
      一五部落(上長沢・下長沢・泉町一から四・高岡・柚木・福元・添賀・平村・重藤・永木・梅原・福住)
 本 殿 元禄一〇年(一六九八)の建立(棟札)
      流造、昭和三〇年に草葺を銅瓦葺に改修される。
 拝 殿 瓦葺、梁間五間、桁行七問の妻入り。
      内部は間口三間、奥行二間の間に段をつけ、本殿寄りの二間は三つに仕切り幣殿とする。
 楼 門 建立年は不明であるが出組で中備に蛙股を配し、軒下に板支輪を入れ、重々しさを出そうとしている。
 鳥 居 「元禄一六癸未歳三月、当村名主長岡尹貞発起之」と刻まれている。今から約三〇〇年前に建立されている。
 神名石 明治二八年に建立
 階段改修・玉垣建設 皇紀二六〇〇年(昭和一五)記念の事業。
 小 社 八幡神社・小千神社・鹿島宮・香取宮・杵築神社・稲荷神社・八耳神社・足塚神社
 宮 司 峯本 洋史

 主な宝物
 ① 本殿棟札
 「皇極興天壌無窮四海昇平国家安穏武運長久物庶安処五穀豊登諸願成就焉」
 天平勝宝六甲午秋八月社僧慧海敬記とある(天平勝宝六年は西暦七五四年)。現存する棟札は上部は細くなっている神札型である。しかし甚だしく腐蝕していて書跡は不明瞭であり、真偽の程は明らかでない。本文に示す通り行基の弟子と伝えられる仏僧慧海が奉仕していたのではないかと考えられる。
 ② 石鳥居遺構・県指定文化財
 当国守護河野之通有之御代也 謹奉立鳥居支 当所地頭合田通基 大願主梅原沙弥道興 大工越智氏範近中山名主御百姓達各各敬白
「ときに応永玖年歳次壬午八月念二日」の刻書がある。
 右の銘記によると、約五九〇年前の建立であって、通称一本鳥居と称せられその一部が現存している。最近に至り関西には二基しか残っていない古い型の鳥居として、また、金石文上からの重要な文化財であるとして昭和四五年(一九七〇)県指定有形文化財となった。
 なお、鳥居の一部は城主の所望によって持ち去られたものが、長浜住吉神社の手洗石となっていると伝えられている。また一説には、洪水により破損したものとも、工事半ばにして中止されたとも伝えられている(『大洲旧記』、『伊予温古録』による)。
 平成六年になって、町文化財専門委員たちにより、付近に散乱埋もれていた数片の石を組み合わせたところ、鳥居の笠木の原型となり一本鳥居の笠木ではなかったかと考えられ、今後の研究課題とされている。
 ③ 般若心経残欠 四〇〇巻の内二巻が現存 町指定文化財
 『大洲旧記』第三巻中山村の項及び第八巻惣津村の頃に、藤縄の森三島神社に応永二年(一三九五)の大般若経が残されている旨が記されている。
 当神社の般若経巻八六の奥書に
   「大檀那源高實 応永二年乙亥一夏中真讀畢」
 と読みとれることから、奇しくも一本鳥居に記されている年号と同じ年号であることが確認できる。
 さらに『大洲旧記』によると、六〇〇巻の内二〇〇巻は広田村秀禅寺にあると記されている(現在は焼失してない)。奉納者は伊賀前地頭因幡守源朝臣高實入仏宿願によるとある。明治元年までは相当の巻数があったようである。
 なぜこの般若経が当神社に奉納されたのか、またなぜ秀禅寺に分けられたのか、因幡守源朝臣とは一体どんな人物だったのか等々今後の研究がまたれる。「伊予史談」二九五号には「放浪する大般若経」と題して興味深いレポートが掲載されているので参照されたい。

 由緒沿革
 当三島神社は「……天平勝宝六甲午秋八月社僧慧海敬記」と本殿棟札にあることから考えれば、奈良時代孝謙天皇の御代、今より約一、二〇〇年前伊予の国大三島大山積神社より勧請奉祭したるもののようである。
 また「社僧慧海敬記」と誌されていることから推察すると、神仏混淆の時代相が窺われる(神社記録)。
 降って鎌倉時代に至り、伊予の国守護河野通有その子通告、通朝、通貞を連れ、喜多郡中山梅原の郷に入り、これを領有し、三子に城戸、越智、合田の姓を名のらせ長くこの地に留まらせた(城戸家譜による)。
 南北朝・室町時代に至り、合田氏はもっとも勢力を得て高森城(合之森城)により五、三八二石を領し一三ヶ村を支配するに至った。
 中でも合田通基は当神社を守護神として篤く崇敬し、応永九年(一四〇二)自ら大願主となり鳥居を建立し、神域の面目を一新した。この鳥居が県指定文化財として有名な「一本鳥居」であり、その一部は現存している。
 その後城戸氏が勢力を得て、天正・文禄(一五七三~一五九六)の頃、高森城より天山城に転じ、城戸右京亮通高が城主となり、深く本社を敬い社殿の造営及び境内拡張整備に意を注ぎ、現在の神域を形成したものと伝えられる。
 ついで慶長五年(一六〇〇)右京通高は、関ヶ原合戦の功により九州臼杵城に移り五万石を領し稲葉と姓を改めた。時に一子を残し長く本社の祭祀に奉仕させたと伝えられている(城戸家譜による)。
 近世に至りて大洲城主深く本社を崇敬し、年ごとの例祭に当りては御召仕(御目付)の差廻しがあり、祭祀の奉仕、典儀、城主の代参を勤められたと伝えられている(城戸家伝による)。
 このように当神社は、昔から地頭・城主の崇敬篤く、近郷住民の参詣者も多く隆盛を極め、約四六町歩の地所持ちの大社であったといわれている。