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中山町誌

一、 村落社会の構造

 ムラは、単なる近隣集団ではなく、相互扶助を媒介として生活を営むための結合体であり、生産関係の上に成り立っている集落社会である。
 中山町の村落社会の構造がどのようなものであるか、上古のことは不明であるが、藩政時代以降について考察を加えてみることにする。

 村落制度の発生
 藩政時代の郷土は、中山村・出渕村・佐礼谷村・栗田村の四村であって、各村に庄屋が置かれていた。その当時の村の行政機構をみると、村役人や村寄合いといったものが中心となっていて、村役人は、庄屋(関東では名主といった)・組頭・百姓代などで、村方三役と呼ばれていた。村役人である庄屋の上に大庄屋があり、郡代官に支配されていた。
 また、議決機関には、村寄合いがあり、さらに最寄りのものが集って五人組の制度をつくっていた。これは連帯責任の最小の単位であったが、後で相互扶助的役割の芽生えにもなった。
 では村落社会はどのように推移していったのであろうか。単に行政区画で定められただけでなく、地縁・血縁的結び付き、相互扶助的つながりの場でもあった。しかし、高度成長期の経済発展による生活様式の変化や、核家族化などにより、村落社会即地域共同体というような考え方は、次第にうすれつつある。

 町の組織と機能
 中山町は昭和三〇年町村合併以後、中山・出渕・栗田・佐礼谷の四つの大字に分かれ現在に至っているが、さらにその大字は、いくつかの地区や小組に分かれている。この大字は、単なる地域区分のようで、実際には、大字の中の地区単位で行政活動が行われている。小倉・柳曽・カンヤのように、小さな地区では地区全体が小組となっており、この小組がそのまま班になっている。

 役職
 町の役職制度についてみると、町長の下に各地区の区長がいて、区長の手助けとして副区長がいる。区長は公民館の分館長、副区長は農事・税務に関与している。また小組では、もとは伍長といわれていた班長が輪番で選ばれ、集金や伝達などの役目を担っている。
 また、神社総代や、宮世話人といわれる役職もあり、昭和六一年には保健推進委員が設置され、高齢化社会への対応をすすめている。

 寄合
 寄合は町内各地区によって回数が異っている。平地部では年一回で三月末の総会のところが多い。それに比較して山間部では毎月一回と、年間あたりの回数が多くなっている。この定期総会では、税金徴収や各種の伝達・協議が行われ、出席者は戸主でもだれでもよい。

 村入り・村制裁
 中山町では、「ムラ入り」とか「ムラ制裁」とかいうことはあまり規定がない。ある地区で、ムラに入るために、組入り規定といわれるものがあったぐらいである。中山町には、人の出入りが少ないため、このような規約が不必要だったのかも知れない。