データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

四、 地名とその由来

 前述のように地名の由来は発生の時から不明瞭な場合が多くはっきりさせるのは大変むずかしい。そこで、すでに研究されたものを資料とし、また、聞きとりなどをもとに、平成六年度の調査までに判明しているものを、小学校区ごとにまとめてみた。

 (1) 中山
〇 長沢・大フケ 長沢は集落の呼び名で大字でも小字でもない。大フケは小字名である。沢とは低地で水がたまり草が茂る湿地、フケ田は深田のことである。
 長沢は、整耕整理(耕地整理)以前は広い範囲にわたり湿地で相当な深田であったという。それがこの地名がついた由来である。

〇 月の海 「サコ」山の尾と山の尾の間をいう。この地に立てば、遙かに海が美しく見え、月もまた美しく見えるという。これらのことからこの名がついた。

〇 寺尾 寺尾は昔、赫岡といっていた。この土地はいつも日が照っていて、町内でも一番暖かく夜でも光っていたのでこう呼ばれた。それがなまって寺尾となった。

〇 小倉 昔、このあたりに蒲山城の食料倉庫があったので小倉と呼ばれるようになった。

〇 馬木 牧場を馬柵という。昔、蒲山城の馬小屋があった所である。

〇 大佐礼峠 されとは崖崩、小石の多いところをいう。用語の項参照されたい。

〇 日ノ付・影ノ付 漆の日ノ付は西向きで、朝方から夕方まで長く日が当たる。影ノ付は東向きで、午後になると日が当たらなくなる。

〇 漆 漆の木がたくさんあって漆といった。

〇 福岡 地形が扇形に似ているので、「オオギ」と呼ばれていた。扇は末広がりで縁起がよいと思われていたが、生活が貧しくなったため、福が舞い込むようにと福岡と名付けた。

〇 中山 中山という地名起源は定かでない。中世時代の史料に、すでに中山という呼び名が使われているのをみても、古くからの地名であると推測される。以下その起源について伝わっているものをあげる。
 1 「鳴き山」が中山へと変わった。
 永田三島神社の由緒書の中にある一文で、それには、伊予風土記に書かれているとしてある。
 2 「中山氏」が庄屋になったことによる。
 昭和四〇年版中山町誌にある。(その後研究が進み、中山氏庄屋以前に中山の表現があるので、地名の起源とするのはむずかしい)
 それぞれ、確たる証拠が無く、自然発生的に起った呼び名と思われる。

〇 出渕 昔、大興寺の崖の下に大きな渕があったという。今そのところを新地(開拓・埋立地などに使う)といい、大字出渕一番耕地であったから渕のあったことは事実らしい。地名はこんなところからつけられたのではなかろうか。
 盛景寺の寺伝によれば、僧行基が巡錫中、泉町の上の寺尾渕より柏の木をとり出し、仏像を刻み盛景寺へ安置したから村名を出渕としたといわれている。

〇 秦皇山 地名の起源は諸説があり、どうして、いつ頃からということは定かでない。明治初期の県の公文書には、小池山はあっても秦皇山の名はない。当山は信仰厚く、神降・秦皇と名付けられたのは江戸初期であるという説や、十一面観音の守護神に秦皇王というのがあり、昔の行者がその名をとって付けたのではないかという説もある。

〇 門前・堀越し 盛景寺が隆盛であった頃の門前(町)である。また、豊岡にあった垣生城の追手門に当たる所を門前といい、空堀のあった近くを堀越という説もある。

〇 尾立て山 豊岡にある。秦皇山の末端に流れるように続く尾根が平地まで届き、動物の尾のように立っているのでこの名がついた。また、城主の館があった小山だから、城山と同じように「お館山」と呼んだとも考えられる。

〇 追俵 この道は福元から柚之木へ行く近道で、俵を「おいこ」で背負って通ったのでこの名がついた。

〇 平沢 長沢に似ている。沢は湿地帯、平沢は平坦な土地が多く、フケ田も多い。平沢の田の面積の半分位はフケ田であるという。地名もここからきたのではなかろうか。

〇 石の窪 柚之木の石の窪は石が多くある。家屋敷の裏も石が多い。このような土地は方々にある。

〇 福城寺 昔平村に、福城寺という寺があったのでこの名が付いた。

〇 大門 昔、添賀に豊造寺という寺があった。「熊野信仰に由来する旦那願文によると(応永一八年)豊造寺の先達が七村の壇家の代表をつれ、熊野詣をしている」この勢力のあった寺の前に大きな門があったことから、この地を大門というと古老はいう。
     「 」内は歴史部会の調査でわかったこと。

〇 幕の内 昔、中山でも栄えていたところという。福岡の上にあった城の豪族が下におりて広場に幕を張り、花見などをしていたので幕の内といったらしい。

 (2) 野中
〇 大矢 蒲山さんと秦皇山がけんかをして、大きな矢を射た。その矢の落ちた所が、大矢といわれるようになった。

〇 仁川登 川(小さい谷川)が二すじ登るように流れている。これから名付けられたという。

〇 影の浦 長曽我部軍が攻め込み、蒲山城が落城する際、城兵が山腹に逃げ込み隠れた。そこが「カゲンダ」といわれ、「カゲンダ」が変じ「影の浦」となったといわれている。

〇 宮西 お宮の西にある。
 このように野中地区では地名の由来がすぐ解釈できるところが多く、他の地区よりもはっきりとした特質を持っているように思われる。

〇 とうみんだけ 蒲山城趾より西方の岩山をいう。この岩山から敵が攻めてくるのを遠見していたので「遠見だき」と呼ばれ、それが変じて「とおみんだけ」となったといわれる。

〇 宮ノ瀬 影の浦と仁川登の境にあり、古文書によれば、「一一八五年(平家滅亡の年)上唐川村の浜出稲荷明神の新宮が、今の栗田村に造立された。翁山神社ともいう」とある。ここに「宮ノ瀬」という地名が残った。
(因みに浜出稲荷明神は、河野氏より相当な社領を受けていたとある。)

 (3) 永木
〇 天山 『大洲随筆』によれば、「風土記に曰く、(前略)天上に山有り、分かれて地に墜ち一片は伊予の国となり天山……ミだりに強ユベからず」と天山の説明がある。
 永木地区は高地である上に、山が浅いために水不足をまねくことが多い。そこで、昔の人々がこの高い山で天に向って雨乞いの祭りをしたことから、「雨山」と名付けられたものであろうか。
 永木地区のシンボルであり、祭礼の神聖な場所であるために「天山」といわれたのではなかろうか。

〇 船が迫 むかし、大時化の時、難波船が「船が迫」の山に打ち上げられたと伝わっている。その船の中に地蔵尊が乗っていてそれをお祀りした。それから「船が迫」という。

〇 陣が森・百人・太刀洗いの池 昔、この地の豪族がこの山に陣をはったので陣が森と呼ばれるようになった。ところが敵に追われて逃げる途中、梅原の小畑の近くでつかまり全員が切り殺されてしまい、その死者の数が百人にもなったので「百人」と呼ぶようになった。また、その近くの湧き水で血のついた刀を洗ったので「太刀洗いの池」と名付けられた。

〇 合の森(高の森) 『大洲随筆』に「此の合田氏そのカミ当初の地頭のよし、則ち当村に屋敷有、合の森といふ…(後略)」そこから生まれた地名ではなかろうか。

〇 御上(上屋) 合の森の城跡の一段下の平地一帯をいい、武家屋敷のあったところである。

〇 小駄場 乗馬の調教や訓練をする広場であった。合の森城跡の北東にある。

〇 古屋(古屋敷) 合田氏が城主をしていた時代の武家屋敷のあったところである。

〇 陣座の畝 合の森・天山両城に向けて戦争出陣の合図をならす太鼓を設置したところで、永木地区全体が一望できる。

〇 御陣出 かつて上灘・出渕・佐礼谷方面へ出陣する時の集合場所であった。

〇 カンヤ(官屋敷) 天山城主、城戸家の館があったところであり、筆頭家老や重役の館もあった地区である。

〇 五重目 天山城の重役の屋敷があったところである。

〇 とびのこ 天山城の五家の一人絹地兵頭の館のあったところ。

〇 おしゃしき 城主のおかかえ医師の屋敷があった。

〇 鍛冶屋 武具・農具の製作場のあったところ。

〇 御寄家(おやけ) 城主が出陣や外出のとき、館を出て一時休憩したところ。

〇 馬場出 城主が出陣の時「御寄家」で小休止した後、供揃えして出発した地点といわれる。

〇 御前城 天山城の出城として、御防人が詰め、その人たちが居住していた土地である。

〇 門 天山城登り口にある検問所の番兵が住んでいた地区。

〇 大木戸 旧街道から天山城下村落へ入る場合、福住の入口にある第一検問所(関所)を通らなければならず、その周辺を大木戸といった。

〇 河原 三島神社北側の谷口川が氾濫して河原になったところ。

〇 鳥越 天山と黒岩岳の間にあるこの峠を季節・季節に渡り鳥が飛んでくるところからついた名前。

〇 日ノ付・日の影 地形の上から、日当たりのよい南斜面、日当たり少ない北斜面、それぞれを指して呼称するようになった。

〇 新開・下開地・井手ノ上・横畑 これらは開発・開墾の歴史から名付けられたものと思われる。

〇 西の御堂・尾鼻の堂・猪首の堂・庵場 お堂につながる地名は多い。これらの地には全てお堂があり、それぞれの土地の人が集まってお籠りをしたり、お経を唱えていた。これらのことより地名がついたのであろう。

〇 茶堂 昔、参勤交代の時に大名行列がそこでお茶を飲んで休んだところといわれている。

〇 重藤 戦国時代、重藤の峠より力強い武将が天山城へ向って藤かずらで巻いた強い重藤の弓を射たという伝説から生まれた地名である。

 (4) 佐礼谷
〇 佐礼谷村 『佐礼谷村郷土誌』の記録、「峰の薬師の本堂の棟札」に拠れば「(前略)茲に到り必ず左顧して之に礼す。邑の名此に原すと云う」とあり、「左顧礼之邑」が転化して佐礼谷村となったといわれている。古い書物には左礼谷と出ている例もある。また、佐礼谷地区は、いったん村に入ると寺も社も左側に見えて、左に礼をすることになる。そこで佐礼谷の地名がついたという古老の話もある。

〇 鎌稲のまつば 戦国時代に、坪之内の城から弓の的として向かいになる村中の鎌稲に矢を放ち「まと場」(弓の練習をする場所)としていた。「まと場」が「まつば」になったのではないかといわれている。

〇 やす場 じょうの城跡付近を「やすば」という。ここを通る道は昔から、秦皇山観音堂へ通じる要路であった。秦皇山へ登る人の途中の休憩場所であったらしい。そこで「休む場」が転じて「やすば」となったという。

〇 村中 村中は佐礼谷の中心部に位置し「村の中心」という意味である。神社の近くというので「宮本」と呼ばれた時代もあった。

〇 灯明滝 村中にあり、昔長曽我部軍との戦いの時、村人たちは夜間目標がわからないので、谷間に突き出た岩の上に明りをおいたのでこの名がついた。

〇 山口 山の入口にあったからである。

〇 牛のこぶち 山口にあり、昔伊予市や栗田から牛を預けにきていた。その牛がよく川の深みに落ちたのでこの名がついた。

〇 もしょぼ 山口にあり、昔そこで人が死に、亡霊になって出るのを怖がってつけた名前である。

〇 柿谷 「崖谷」と呼ばれていたが、柿がよくできるところから「柿谷」と呼ばれるようになった。

〇 中替地 松山藩の領地であったが、砥部の宮内村が大洲藩の領地であったため、藩どうしが交換し合い、以後中替地といわれた。

〇 赤海 昔赤海は、おに茅が生い茂り、これを焼くと赤い海のように見えたからである。

〇 犬寄 飛脚が山犬に襲われた伝説から生まれた。(詳細は伝説の項参照)

〇 日浦 「浦」という字は「ふところ」という意味があり、陽がよく当たり「陽だまり」くらいの意味でついた名前。
 はじめの、地名用語の項も参照されたい。

〇 峯成 峯がなるい(なだらか)のでついた名前。

〇 札場 昔、日浦の大洲街道沿いに藩の高札が立てられた場所で札場と呼ばれる。

〇 竹之内 昔、このあたりには竹藪が多く、家々は竹に囲まれていたのでついた名前。

〇 おかご立て場 竹之内にあり、昔、大洲藩主が参勤交代の途中ここで籠を止めて休憩した場所といわれている。

〇 榎峠 昔、大師堂の前が小さな峠になっていて、榎の大木が三本あったのでつけられた地名。

〇 源氏 山吹御前の従者が住み着いた土地といわれる。

〇 杖立峠 栗田村三島神社の神官越後守宗能が上野村八幡に行き、帰途腹痛のため杖立峠で死亡し、その地に葬った。印に馬の鞭を立て「鞭立峠」といっていたが現在は「杖立峠」という。