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中山町誌

一、 環境と座敷構え

 中山町は、平坦な場所が少なく、日当りの悪いこともあって、山の中腹に屋敷を構えている家が多い。
 山を背にした南斜面の前面または三方に石垣を築いてやっと家を構えうるほどの平坦地を造成し、排水や風当りなどの条件も選びつつ、山際に寄せて家を建てている。切り取った山側には高い石垣を積み上げ、土砂の崩壊を防いだ。特に地形の悪い場所では、建物の基礎に段差を設けたカケヤ造りの家も稀に見られる。
 屋敷内には母屋(おもや)・隠居屋・納屋(駄屋を併設)を持っており、少し裕福な家では土蔵を備えていたが、門構えのある家は極めて少ない。
 飲料水は、湧き水・掘井戸によって賄われ、家の近くに水のない処では、くみ川・横井などから水おけで担って運び、使っていた。昔は車井戸・ツルベ井戸が大部分であったが、大正時代に入り、ポンプ井戸となり、戦後は電気モーターに変っていった。連たん地区においては昭和三八年頃から簡易水道が普及し始め、現在では、山間地域でも簡易水道が相当普及してきている。
 農家では屋敷内に普通、母屋、風呂場、便所を取り、そのほかに籾や雑穀の干し場を必要とした。
 町家では、家は密集して建造された。瓦葺で街道に面して両側に建てられ、格子や連子をつけて用心よくしていた。
 農家の古い家は、寄せ棟、または入り母家造りもあるが、切妻式の家が多く、寄せ棟の草葺屋根は、次第に瓦に変ってきている。屋根は葺きおろしの家は少なく、普通瓦葺きの庇を設けていて、多くの家では庇は四方につける寄せ棟四方ぶたである。明治の末期頃より、上屋根付きの家が建てられはじめたが、これは天井が高く、中二階として利用され、外観も立派で、どっしりとした落ちつきがあり、裕福な家庭で造られたものが多い。
 草葺屋根の材料は、主として萱や小麦わらを使っていた。葺き加えは屋根職人を雇い、近所同志で手伝い合いをして作業をしていた。
 また、この時期安別当地区において瓦の製造がはじまり、瓦葺きの屋根が多くなっていった。しかし、材料となる粘上が上等でなく、戦後も一時期製造していたが間もなく製造中止に至った。
 土間は「にわ」といって家内作業をする所である。また、一隅にはもみ蔵、俵戸棚を備えた家もある。
 よまと呼ばれている居間は、表の間・茶の間・座敷・奥の間(納戸)の四部屋が普通で、座敷は客間であり、床の間・神棚がある。納戸は寝室である。来客が多いときは表の間と座敷を仕切るふすまを外して、大部屋として使用していた。
 茶の間は、食事の場所で、中央部にいろりを造り、そこを中心にして家族が集まり、食事をとり、娯楽を共にした。一家団らんの場所であるとともに、縄ないなどの夜業をする処でもあった。茶の間には、恵比寿・大黒様の神棚が設けられている。
 いろりには必ず自在鉤が備えられて、茶釜などを吊して湯などを沸かしていた。また、いろりを中心として一家の座が決まっており、上座は主人、奥座は妻、表座は客座とし、下座は嫁や下男下女となっていた。また、茶の間には天井がなく、破風が煙出しになっていた。ここから煙が出るのであるが、反対に吹き込みもするので、風向きによっては、雪が吹き込むこともあった。
 土蔵のない家には、土間に俵戸棚を造り、これもない場合には座敷廊下に積んでいた。
 床下には芋つぼを掘って、甘薯の貯蔵に利用した。
 庭の奥に炊事場があり、大小二つのかまどが置かれているが、家によると二つのかまどのあいたに銅つぼの湯わかしがあった。かまどの近くには荒神様が祭られおり、横が流しになり、調理道具・炊事用具が置かれていた。
 座敷には、床の問をとり、天照皇大神を初め、氏神、八百万の神々を祀った。
 仏壇は普通茶の間の押入れ戸棚と並べて設けられ、北向きを避けた。
 へや(納戸)は北に面していて、窓が小かくて暗い部屋である。
 便所は、家の戸口に接して作られ、内外兼用であった。しかし昭和三〇年ごろから次第に改良されて現在では外便所、内便所がつくられるようになり、さらに臭いのない衛生的な簡易水洗式便器が普及してきている。また、お上雪隠は珍しく、裕福な家庭に限られていた。中には、軒つづきの外便所の家もあった。
 雨戸は、杉の板戸が主であった。へやの間仕切りには障子やふすまが使用された。障子は明り取りを要する縁側に、ふすまは座敷、部屋間仕切りや押入れに使用された。
 破れやすい紙に対して、採光・耐久性のあるガラスがとり入られ始め、さらにアルミサッシの出現で、戸、障子の世界も次第に変っていった。アルミ製の雨戸もできて、建具は今昔の感を深めている。
 町家は、家が密集しているので、火災の心配もあり、瓦葺二階建が多い。店の間は通りに面した所にして、一般に奥行きを深くした。店の間・茶の間・奥に炊事場・部屋、一方に風呂場・便所をとり、二階が座敷・納戸となっている。
 風呂の設備は、どこの家にもあるが、最初は樋風呂または五衛門風呂であったが、昭和五〇年代に入り、衛生的で改良された文化風呂にかわってきた。
 庇は、物干し・薪置場に利用され、床下は雑物入れで、部分的に仕切って鶏を飼う家もあった。
 柱は、石の口という平らな石の上に立て、柱材は栗・杉材が多く使われ、稀に欅材も使われたが、これは裕福な家庭であった。また、柱以外の材はほとんど松材を使っている。
 萱葺き屋根の家は、長期間傷みが少なく冬は暖かく夏は涼しく、雪に強くて住み易い。しかしながら、近年萱草の入手が困難となり、屋根葺き職人の減少ともあいまって、次第にその姿を消してゆき、萱葺き屋根の上にトタン板を被せた家が多くなり、萱葺き屋根はごく稀となった。

図2-1 代表的な農家の見取り図

図2-1 代表的な農家の見取り図