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中山町誌

三、 仕事始め

 キリゾメ
 「キリゾメ」のことを「コリゾメ」ともいう。一月二日の朝、明方の方角の山へ行き、木を切って帰る。一年の薪の樵り初めであるから小さな束でも主人がやっていたところもある。切ってきた本は束ねて庭や木小屋に立ててお供えをし、雑煮を供えるところもある。
 萩に幣帛をつけたものを、本を切った場所と山に行くまでの山道に立てるところもある。萩の代わりに竹に紙を挾んだものを立てるなど、さまざまであった。
 樵り初めについては、注目すべき風習があった。切って帰った木を大切に保存しておき、あとの行事に使うのである。五月五日の端午の節句の餅を搗くとき、もち米を蒸す薪に使うのである。また、この薪の始めに切った清らかな木で田植えの時の田植飯を炊く薪に使用するところもある。
 これらの諸行事も、多くは戦後から一〇年位前までの間に次第になくなったようである。

 鍬初め
 「クワゾメ」は「ホリゾメ」ともいう。一月二日明方の畑に鍬で穴を掘って、餅・柿・栗・みかん等を紙に包み埋める。埋めた場所には、紙を竹に挾んだ御幣や萩に幣帛をつけたものを印として立てたりした。それを子供が掘って帰るのである。近所の子供が掘って帰るところもある。地区によっては、隣の家が埋めたものを交換して掘るところもある。
 また、地域によっては畑に埋めて土をかけることを「カケゾメ」、子供が掘ることを「ホリゾメ」、両方合わせて鍬初といった。

 ナイゾメ
 「ナイゾメ」は「ナワゾメ」ともいう。ワラで一本一本縄をなって「ショウ銭」(昔の小額の穴あき銭)を刺す銭刺を作る。通常は12本、うるう年は13本を束ね、「オイブッサン」に供え、五穀豊穣をはじめ一年中の幸せを祈ったり、お金がたまることを願ったりした。仕事のしぞめに合わせて二日か三日にしたり、六日にするところもある。しょう銭は、通貨ではなくなっていたが、福住地区などでは慣習として、大正年代まではあったようである。

 福わかし
 四日、三宝にのせていた米や餅で粥をつくったり、七草粥に「お福餅」(ただ米を混ぜて搗いた餅)を入れて炊く。これらを「福わかし」といった。「正月三ケ日の御馳走で重くなってしまった腹のもたれを直すためのものでしょう」と、古老の話である。

 七草
 七日、ナズナを入れた雑煮を炊いたり、七草粥をつくったりする。また、ナズナ湯に入ると病気にかかりにくいともいわれていた。この日のことを「ナヌカビ節句」というところもある。
 七草とは、せり・なずな・すず菜・すずしろ・仏の座・ごぎょう・はこべらの七種である。

 三番叟回し
 正月三日から二〇曰くらいの間に徳島から来た二人連れの回り芸人が行っていた。恵比須さんその他のデコ人形を各家で回して、五穀豊穣・家内安全を祈願した。その芸人たちの宿泊する家は定まっていて地域の人が提供していたものである。主として農家を回ったが、各家では、祝儀として金品等をあげたものである。
 昭和四〇年頃まで行われていたが、後継者不足や、農業の衰退などによりなくなった。

 お日待ち
 お日待ちには二通りのやり方がある。
 お日待ちを希望する家に神官が出向き、祝詞をあげ、家族の無事息災を祈願するのである。また、春日待ちといって正月の月中に各部落単位で行うところもある。午前中は、神官が集会所で年の始めの太陽を迎える神事をし、五穀豊穣、家内安全を祈願し、午後は、部落中の戸主が集まり「なおらい」(神に供えた酒・供物などをいだく会)をし、部落の親睦を図る。これが部落の初寄りにもなる。地域によって様々な方式がある。
 なお、お日待ちの本来的な意味は、夜からつめて「日の出」を待つという意味であるが、今は略式で朝から始めるのだと佐礼谷の公民館長はこのように説明する。

 粟穂
 一四日、割り竹を鈎形に曲げて、先に直径二~三cm、長さ一〇cm位のフシ(ぬるで)の木で粟の穂の形に作ったものを差し、これを粟穂といった。恵比須様・大黒様・お荒神様にお供えして、五穀豊穣・家内安全を祈ったのである。

 お飾りばやし
 一月四日にはずした注連縄を一五日に焼く。このことを「オカザリバヤシ」とか、「オハヤシ」などという。焼く所は決っておらず、地域にもよるが、それぞれの家風によることも大きいようである。
 平沢地区の古老は、注連縄を自分の土地のお塚さんに持ってゆき、そこにあずけて土に返すという家もあると話していた。また野中地区の古老は、以前は大川に流していたが、現在はそれぞれの家(田畑・屋敷内)で焼くようになったという。永木地区は自分の家の門先で焼くところが多いという。
 この「オカザリバヤシ」の火で焼いた餅を食べると夏やせしないとか、元気に過せるとかいう話も残っているが、起源や地域は定かでない。
 この項については、後述の「新しい年中行事」の「ドンド焼き」のところでも述べる。

 鬼の金剛吊り・念仏の口あけ
 一六日、部落や組の入り口の道路に縄を張り渡しその中央に金剛吊りをしたものである。吊すものには、部落や組で作った鬼わらじ・鬼の弁当・しゃもじ・箸などを揃えた。
 鬼わらじは藁で作ったもので普通のものよりずっと大きい。弁当は藁すぼに包み、箸は竹のそぎらで作った。このようにするのは、悪疫が部落に入ってくるのを防ぎその安全を守るためであるという。
 鬼がはくような大わらじをなぜ部落の人口の道路へ吊すようになったのであろうか。部落の有志の話によれば「この部落には、大わらじをはく、鬼にも負けないような強い人が住んでいる」ということを示したのだそうである。
 また、昔は疫病をもたらす疫病神は風に乗って飛来したり、雨と共に天降りするのでなく、人と同様に道路を歩いてやってくると考えられていた。(京都百祭による)
 これら両者を考え合わせてみると、鬼の金剛吊りをするのもうなずける。
 鬼の金剛吊りは、以前は平沢地区では、土用の入りに応じて年四回行っていたが現在は止んでいるし、永木地区でも戦時中はあったと古老は語る。
 現在中山で行っているのは、栗田地区だけである。地区の当番制の宿で朝から念仏を唱える人と、ぞうりを吊す人とに分かれて実施する。正月以来はじめて念仏を唱えるので「念仏の口あけ」ともいう。
 また、佐礼谷では、一六日に組念仏をして「念仏の口あけ」といっているが、永木地区でも同様のことをする。

 藪入り
 一六日 小正月のしまいは藪入りである。若嫁や雇われ人は実家に帰り休養を楽しむ日でもあった。俗に「地獄の釜の蓋があく日」といわれた程に大切な日でもあった。

 かいつり
 小正月かその前後に、子供たちが小さい子をつれて家々を訪問して物を貰って廻ることである。「おかいつりに参じました」と訪問すると盆の上に真白な半紙が置いてあり、一枚ずつ貰えたという。当時としては、白い半紙が珍らしく大変嬉しかったそうである。中山町以外にも喜多郡満穂村でも行われていた。多くは明治生れの人の経験談で、大正初期から昭和初期までに次第に止んだ。

 ヤイト正月
 二〇日は、県下的にはハツカ正月・シマイ正月・女正月とか言われ、正月の折り目でもあった。二〇日をヤイト正月といった地方も多い。この日ヤイト(灸)をすえるとよく効くというので二〇日正月をヤイト正月といったのだろう。この日ヤイトをすえはじめると、ウンコウ日(ヤイトをすえない日)にすえても、ヤイトあたりがしないといわれたところもある。この話に付随して、「一五日に搗いた餅(わか餅)を食べるとヤイトをすえた位よく効き元気になる」というので、ヤイトすえるより餅を食べた方がよいといって子供達はよく食べたそうである。
 前者は大正年代でなくなったが、わか餅の方ば現在も残っている。