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中山町誌

第四節 葬儀

 人生最後の儀礼ともいうべき葬儀は誰しも避けて通れないものである。本町ではごく一部の神葬祭の家を除き、ほとんど仏式で行われているので、記述も仏式主体となる。
 先ず死人の呼び方は「シビト」「シニン」であり、葬儀は「葬式」が一般的だが「シマイ」と称する地域もある。

 魂呼び
 人が死にかけると、近親者が家の棟に上り「モドレ、モンテコイ」といい病人の名を呼んだ。これを、「魂呼び」と称し広く様々な形で行われていた。しかしかなりの高齢者の方が子供の頃に聞いたとか親から話してもらったという程度のもので現在この様な風習はない。

 死 亡
 ・家族ですること
 人が死亡すると、直ちに遺体を北枕に臥せ、白布で顔をおおい、新しい布団をかけ、その上に生前着ていた衣類を逆さまにして被せ、魔除けのために刃物を置き、線香を一本立て灯をつけて絶やさぬ様にする。また枕水を用意し死人の唇をしめす。いつも誰かが伽として傍を離れず死者の番をする。
 知らせを聞いた引き合い連中が「悔み言葉」を述べに来ると、その人に「オソレ」という白い紙を神棚や玄関に貼ってもらう。その後、葬儀の日時、連絡する所、手伝いの範囲などを相談する。葬儀の役割分担、進行方法など葬儀一切の世話は引き合いの人に任せる。
 「ゴットリ五円」といい人並に葬儀を行うためには五円もいるので昔も今も大変であった。

 ・隣組(ヒキ合い)の仕事
 〈男の仕事(役割)〉
〇親戚縁者への連絡
 現在は電報電話で簡単だが、昔は遠くても歩いて知らせに行かなければならなかった。これを「使い」と呼び必ず二人連れで行ったという。

〇役場関係等への届出
 死亡診断書を持参し、死亡届、埋葬許可、埋葬場所の指定、火葬場の手配、寺への依頼などをすることは現在も余り変らない。

〇葬儀道具の製作
 現在は葬儀社に依頼すれば全て揃えてくれるが、昔は野道具一式を組の者で作っていた。大工の人を中心に棺から始まって四花・蛇腹・龍頭・大旗・灯籠・位牌に至るまで自分たちで作っていた。

〇穴掘り
 土葬が主体であったため、穴掘りは大変な作業であった。棺桶を埋めるため一メートル以上も掘り下げねばならなかった。この役は「掘り手」と呼ばれ、行く時には一升酒を持って行き必ず空にして帰ることになっていた。その時に使用した道具は、次の日まで墓に置いておくこと、また墓を買うといって小銭を置く風習もあった。

 〈女の人の仕事〉
〇枕団子・枕飯つくり
 炊き方については町内でも多少異ったが、他人が作るという点は共通していた。一般的には米二合をふたをせず炊き、おにぎり四個と山盛ご飯を一杯作り、箸を一本立てる。また米の粉団子を四つ作り死者の枕許に供える。これらは入棺の時「サンヤ袋」に入れ死者の弁当として持参させる。また茶碗は出棺の時「願ほどき」をするといって割っていた。

〇死者の旅装束や持ち物を縫う
 裁縫の上手な人を中心に鋏を使わず布は手でさいて、着せる着物、手甲、脚絆、サンヤ袋、布団などを作る。糸は他の人が馳(玉むすび)をする。多くの人で縫う方が死者が成仏しやすいといわれた。

〇料理作り
 料理作りも女の人の重要な仕事であった。全てを組内で作り葬儀の参加人数を考え献立を検討し、購入する物、自宅から持参できる物等を考え精進料理に近いものを作った。

 通夜
 「オツヤ」「ヨトギ」ともいわれ親戚・組内の人・知人が集まり葬儀の前日死者の弔いをする。通夜の間は線香ローソクを絶やさず灯す。組の人・知人は夜半に帰るが誰かは死者と共に一夜を過す風習であった。

 湯灌
 遺体を洗い浄めること。葬儀の日に家族や近親者が左縄のタスキをかけ遺体を拭き清める。昔の家にはどこか畳一枚分だけ竹で座が作ってあり、死者を清める時に利用した。
 ぬるま湯を入れたたらいを置きタオル等で体を拭き、死出の旅路に立つ遺体を清めた。この湯は床下に捨てるか、日の当たらない場所に捨てていた。現在はアルコール等で簡単に拭きとる所が多くなっている。
 清めた遺体のひげをそったりお化粧をしたりして入棺を待つ。

 入棺
 納棺とも呼ばれていた。棺には座棺と寝棺があり、土葬には座棺、火葬の場合は寝棺が用いられた。
 まず遺体に旅装束をさせ白い三角布を額に付ける。白足袋は左右反対に履かせ、サンヤ袋の中には死者が生前使用していた日用品や弁当、六文銭や愛用品等を入れる。
 棺の下にシキビの葉をびっしり敷き、花、縄のタスキ、役付表等を入れ、最後のお別れをしてふたを釘でとめる。釘は石を持って近親者から順に打ち、終われば棺に縄をかけ棺覆を被せ祭壇に祭る。これは現在と余り変わらない。

 葬式
 仏式がほとんどである。葬式にもいろいろと段階があり菩提寺の僧より戒名が付けられ位牌ができる。戒名も院殿から信士信女までの階級があり、大体はお布施の金額で決まることが多かった。
 式は読経に始まり、導師により戒名が告げられ引導が渡され、死者ははじめて仏となる。読経の続く中、喪主から近親者の順番で焼香が行われ、一般参列者は別に設けられた焼香所で焼香する。この式は現在もほとんど変わってない。

 出棺
 葬列には順序があって組内の責任者が家族と相談して持ち方を決める。これを「役付」といい、二枚書いて一枚は棺の中に納める。責任者が読み上げた順に葬列を作る。葬列は宗派により、また火葬、土葬によって多少の差はあるが概ね次のとおりであった。
①火手(又は鍬) ②旗 ③灯籠 ④典(天)茶 ⑤典(天)水 ⑥四花 ⑦香爐 ⑧枕飯 ⑨杖笠 ⑩位牌(相続人) ⑪棺前 ⑫棺 ⑬棺後 ⑭天蓋 ⑮覆
 出棺は玄関からは出さず座敷縁から出し、それと同時に茶碗を割り棺に着せていた衣類をふるって願ほどきをする。その衣類は寺に納める風習があった。棺は庭で三回左廻りをする。棺を担ぐ人は故人の親しかった身内の人が選ばれたが、重いので組内の人が助けてくれた。
 最近では葬儀社が一切をとりしきり、昔ながらの方法と異ることも多く地域の特色は少なくなった反面便利になったともいえる。

 埋葬
 埋葬には土葬と火葬があるが昔はほとんど土葬であった。掘った穴に棺を納め、最初に喪主が土をかけ「ええ所へお行きよ」と、呼びかけながら近親者から順番に少しずつかけ、最後に組の人により埋めつくされ、石で覆われ、野位牌や香炉・典水・灯籠などで飾られた。
 野辺送りから帰ると塩払いをし、隣組の責任者が中心になって皆で念仏を唱え、「トキノメシ」という食事をする。
 これは死者との別れの食事であり、この精進料理も組の人達によって作られていた(ある地域では食事→念仏の順になったり食事の準備は葬家がすることもあった)。
 このような土葬は昭和四〇年代頃まで行われていたが、現在は火葬であり出棺後は火葬場(伊予聖浄苑)へ行き、骨上げをし自宅へ持ち帰り、翌日納骨をしその日に四九日の行事を済ませる家庭が一般的となった。

 忌明け 年祭
 忌みの期間は四九日でその期間を中隠と呼ぶ。四九日が三月越になるのを忌む風習があり、三五日でする家もある。四九日までは「ヒト七日」「フ夕七日」「ミ七日」と、七日毎に葬家の人は墓に行き火を灯し、近親者や組内の人が集まって念仏を唱え良い仏になるよう祈り、四九日には僧侶を招き満中隠の法要をする。葬家では四九餅を供えたり、「中隠返し」を配ったり、近親者には「形見分け」といって故人の遺品を分けたりもしていた。
 この行事によって死者は完全に仏の世界に入ったこととなる。葬家ではこの期間は神社への参拝は慎んでいたが解除され、位牌も仏間に移され日常の先祖供養となる。

 命日(年忌)
 亡くなって一年目を「アタリ」「ムカワレ」と称し僧を迎えて法事を営む。その後は三年、七年、一三年、一七年、二五年、三三年、五〇年、一〇〇年となっているが大体五〇年で終了していた。また塔婆も三三年までは板で、五〇年は角塔婆を使用していた。
 家によっては古い年忌は「アゲ法事」といって、寺で塔婆を書いて拝んでもらい家族だけで墓参りをしていた。

 巳午の行事
 仏の最初の正月は一二月始めの「巳午の日」に行う。巳の晩に集まり、午の日の早朝お墓に行き、竹に刺した餅を焼き肩越しに後の人に渡して食べた。これを食べると夏病にかからないといわれ、これを「巳午もち」といっていた。この日は通知がなくても参ることになっていた。
 また新仏になって最初の春彼岸を「アラ彼岸」、お盆を「アラ盆」と呼び親戚縁者が墓参りに訪れた。
 また「新盆」には精霊棚を作り、盆灯籠を取りつけ、盆期間灯をつけ霊を慰め、終わると精霊流しをした。

 その他
〇名づけを待たず死亡した幼児は、葬儀は行わず床下か庭の隅に家族だけで埋葬した。
〇早産の時は水子供養をして埋葬した。
〇幼児の場合は、「札送り」といって僧侶は呼ばず寺からお札をもらい棺の中に入れ近親者だけで埋葬した。
〇出産の際親子一緒に死んだら、幼児は母親に抱かせて埋葬した。
〇流行病で亡くなった場合は、家族の者が近所に断りをいって僧侶も呼ばず家族だけで済ませた。葬法は「野焼」「野天焼」と呼ばれていた。
〇香典は「お悔」などといって米一升と一〇銭二〇銭程度持って行く。
〇葬式は「友引」の日を忌みこれを避けた。しかしやむをえない事情の時は深夜一二時を回ってからとか、「友除け」の祈願をして行った。
〇葬送に関する俗信も多くあった。例えば「合年の人はお見たてしない」とか、「カラス鳴きが悪いと人が死ぬ」とかが信じられていた。
〇葬具としては部落共有の「葬式道具」が現在も残っているところもある。
〇死者の「死にぎわ着物」は処分してしまわないで、何か一枚人目のつかない所に四九日まで干しておき、終わったら処分するという地域もあった。