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中山町誌

七、 五輪塔

 五輪塔は昔の墓標であるといわれる。古くは平安、鎌倉時代から建立されたが、中世時代に至り全国的に普及し村々にまで及ぶようになった。
 五輪塔の中でも、一石をもって刻んだものを「一石五輪塔」と呼んでいる。貴重な物で町内では余り見られないが、影浦地区共同墓地内・上長沢・永木で見かけることができた。
 宝篋印塔は形態的にも貴重なものであり、宝町末期から江戸時代に作られたといわれ町内でも少ししか見られないが、永木の三島神社お旅所、合ノ森城跡、榎峠水源池横、佐礼谷河内家裏、栃谷、盛景寺等で見ることができた。
 無縫塔は別名卵塔とも称し各寺院の住職の墓碑として用いられていた。
 五輪塔は元来は真言宗派に用いられた墓標であったが後にはどの宗派にも及んだ。五輪塔は五輪を供えている塔婆なので「五輪塔婆」ともいわれている。
 町内至る所に数多くの五輪塔が現存するが、そのままの姿で残っているものは余りない。道路建設や耕地整理など何かの事情で欠落したり寄せ集めになったりしているものが多く、貴重な文化財として今後の保存が期待される。
 また町内に存在する五輪塔は、いつ頃、誰が、何の目的で建立したのか判別することがむずかしく、今後の研究が待たれるものである。
 畑や田んぼの中に石垣があり、その周囲は耕してない所をよく見かける。これを「お塚さん」と呼んでいる。これは戦国武将の墓だとか、○○神様だとかいって、うかつに動かしたり粗末に扱うと崇りがあるといって今でも盆や年末などにはお供物などをして供養に務めている。
 近年新道ができ移転されたものもあるが、多くのものは昔のままで、人通りの少なくなった旧道の路傍でひっそりと苔むしたままになっている。しかし草に埋もれた神仏に向って山仕事や畑仕事の行き帰りに花を手折り、実った農作物を供え、願いごとを託す本町民の素朴な姿に、忘れかけていた何かが甦ってくるような感じがした。  (この項については文化財の項を参照のこと)

図6-6 五輪塔図

図6-6 五輪塔図