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中山町誌

第三節 囲碁

 囲碁は本町においても趣味による健全娯楽の一つとして古くから行われていたようである。
 古い時代の状況については記録もなく知る由もないが、古老の話によると、松田喜三郎、豊谷大治郎、新居等吉の諸氏の名前が挙がった(いずれも明治中期頃)。
 明治末期から大正期にかけては愛好者も順次増加し、相互に対局を申し入れて、その醍醐味を楽しんでいた。当時の愛好者には大森寅治郎、玉井浩三、五島梅吉、灘岡平八、玉井民三郎、福岡利三郎、山本隆枝、豊谷麟太郎、妻鳥暁太郎、北岡源宇、阿部十拳の諸氏がいた。
 その後、年を経るごとに隆昌になり昭和三〇年頃には日本棋院の有段者も輩出するようになった。有段者としては亀岡佐賀雄(二段)、森井敏明(二段)、灘岡将一(初段)の三名がいた。
 これら各氏の発起により昭和三二年(一九五七)には日本棋院中山支部が結成され、入会者五〇名の多数参加を得、会長に亀岡佐賀雄、副会長に森井敏明、灘岡将一が選ばれその道の奨励指導に務めた。
 会場は亀岡宅が使われ、会員は余暇をみつけて研修に努めた。時には松山から有段者を招き指導を仰いでいたが、昭和三四年会場であった亀岡宅が火災に遭い、一時休会のやむなきに至った。しかし、昭和三五年七月会員の熱い要望により同会が再興し、三〇余名の入会者が灘岡宅を会場として集合し、相互の親睦研修に努めた。以来、一進一退を繰り返しながらも、昭和三八年九月に会員の減少に伴い解散の形となった。
 この時期から公民館主催による囲碁将棋大会が毎年二回(新春と夏季)開催され、同好者によりその優勝を競うと共に相互の親睦を図っている。さらに最近では文化協会と公民館共催による大会も開催されているが、囲碁を楽しむ人達が順次減少し、若手が育ってこないことは淋しい限りである。