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中山町誌

一、 神楽芸

 巫子神楽(鈴神楽)
 巫子は、巫子神楽を奉納する未婚の女性で、特に年齢的な制限はないが、童女期から少女期に及ぶのが一般的である。昔は巫子家が設けられていたが、後には神官の娘または雇い巫子によって演じられた。
 その発表機会と場所は秋祭りの宮出し祭典・お旅所での式典等で舞納めている。もとは一人舞であったが、近年は紀元二六〇〇年(一九四〇)の奉祝舞として制定された「浦安の舞」から変化した二人舞で演じられることが多い。
 扮装は巫子姿で天冠をつけ、右手に鈴左手に扇を持ち、大太鼓と締太鼓(または拍子木)の囃し方に合わせて演じられる。
 この二人舞はまず神前に進み、二拝二拍手一拝して起立し、太鼓の拍子に合わせて前進後退、左右に回りながら要所要所で鈴を振り鳴らすことを繰り返し、至って簡単な所作である。所定の舞が終われば再び座して拝礼し元の座に復して舞は終わる。各神社により多少の差異はあるが、大きな流れについては共通している。

 神楽舞
 俗に「おかぐら」といわれる神楽舞は和歌と舞とを交互に連ねて一段となし、段毎に採物(榊・竹笹・棒・弓・刀剣・盆など)の変わる幾段かの舞と、仮面をつけ天の岩戸開きなど神話の舞を演じる幾段かの舞から構成される神事芸能で、各段とも急速な旋回運動の目立つ舞が多い。当地方は出雲系里神楽の伝承を受け継いでいるのがほとんどである。
 楽器は太鼓(一)、締太鼓(一)、鉦、横笛などが用いられる。
 天の岩戸の神遊びに始まったとされる神楽は、本町の各神社にあっては秋季大祭に奉納されることが多いが、春の例祭に奉納する神社もある。
 起源由来など不明の点が多いが、永木三島神社、高岡鶴岡天神宮には神楽百年記念の額が奉納されていることから察すると相当古くより行われていたと推察される。本町においても大正初期までは各神社の神職が寄り集まって、神楽部を組織して演じていたが、神官だけでは人手不足を生じて、その後は専ら神楽人の手に移った。現在は立川の神楽部の人達(一部中山の人も属している)に依頼し実施している神社が多い。
 神楽舞はそれぞれの演目により衣装・面・採物などが異なり、「神楽集」の詞章を詠唱し舞躍る。
 演目としては「四天王の舞」「弓の舞」など一五近くの演技があり、全部を演じていると三時間以上を要し、かなりの重労働となるため、いくつかは省略するが、それでも一二種目は演じることにしている。
 神楽は祭儀の一環として奉納されるのが通例で、神楽舞により神霊を慰め、家内安全・厄払い・豊作祈願の行事として古来より親しまれてきた。提婆(鬼面の役)が滑稽な言辞や動作を交えて、一般観衆や婦女・子供と戯れる場面もあり神人合一の舞楽でもある。
 また四天王の舞(四天舞ともいう)では、提婆が病弱な幼児・老人などを抱いたり背負ったりして一舞演じ、病魔退散・祈願成就を祈念する場面も設定され、氏子民の信仰に携っていたのである。
 神楽に唱される神楽歌は大変多く、全部は掲載できないので、その一部、次の様なものを紹介しておく。
 神祭る三室の山の榊葉は 心の注連を掛けぬ日ぞなき
 神風や山田の原の御注連縄 長きを掛けて住める吾が国
 皆人の祈る心の理に 背かぬ道を神や守らむ
 久方の天より降る村雲の 剣は今も世々に栄えん
 真榊に掛けし鏡のくもらぬは 神の御徳の験なるらん
 武士の矢猛心の梓弓 引きしぼりたる心にぞある
               (『中山町誌』一部参考)

 舎儀利
 舎儀利は「しゃんぎり」とも称し、本来は笛の譜名であるが、後には芝居などの序奏及び終奏の時に囃する鳴物へと変化していった。これを神事に取り入れ、神輿の渡御に参与し、鬼人(提婆)と組み合わせて道祓い・悪魔払いの意味を含ませた行事となったもののようである(一説には神楽の変わったものでないかと説く人もある)。
 宮出し宮入りとともに、先祓いとして神楽渡御に先行する。本町においてもいくつかの神社に存続しているが、いつ頃から始まったものか、はっきりした資料はない。古老の言によると、永木三島神社の「しゃぎり」は永木部落の入岡長兵衛(明治二年没)が、他所から習ってきて梅原部落の人に伝授して以来、一五〇年程経っているお供行事だそうである。他の神社においても大体同時代から行われたものと推察されるが、お供行事として参画することは全県的に見ても珍しく他地方に見られない行事である。
 舎儀利の構成メンバーは二五~三〇人程度で、提婆(二名)・締太鼓(一)・小太鼓(一)・鉦すり(二)・手拍子(一)・太鼓持ち(二)そして七人の子役と青年(一〇~一五)というようになっていて、青年全員が横笛を吹いて「ドン ドンチャチャチャン チャン」と囃子方に合奏する。
 提婆は青年、子役も皆男子である。子役は長着に袴、垂れ飾りつきの襷を掛け、白足袋、ひもかけ麻裏草履で鉢巻を締め花笠をかぶる。若連中も和服に羽織・足袋・下駄ばき、提婆は提婆装束で「ササラ竹」を持ちお練り行列の進行と規制監督をする。
 進発(打ち込み)に当たり提婆による道祓いの所作即ち「ささら祓い」が左、右左による古式豊かな三度祓いが行われ、参拝者も頭をたれ、これを拝む光景も見られた。

 獅子神楽
 獅子舞は、奈良時代に伎楽・舞楽・散楽等の一曲として唐から伝えられたが、平安時代に至り宮中で行われていた散楽の一つが民間の田楽(豊年を祈る)の中に取り入れられ、民間芸能となって次第に広がったものといわれる。
 以来、獅子舞は五穀豊穣の祈りと悪魔祓いの意味を持った行事として、各神社のお祭りなどに奉納され、今日まで一、〇〇〇年以上の永い伝統をもった神楽行事なのである。
 この獅子神楽が本町に伝えられた時代については、確かな資料がないため特定しにくいが、永木地区の獅子舞記録簿(明治三九年起現在に至る)に古老の話として、同地区の六代目城戸庄五郎さんが五歳の時獅子舞の猿の役を勤めたと載っている。これが天保二年(一八三一)旧八月二三日の祭礼であったと伝えられることから、今より約一六〇年前には既に行われていたことが窺える。
 同記録によると、佐礼谷の日浦の住人吉蔵外三人より伝授されたと書かれているから、同時代には日浦でも行われていたものと考えられる。
 また門前獅子の道具入れ箱には、文久元年(一八六一)作と記録されていることから考えて、町内の各神社でもほとんど同時に行われていたものと推測することができる。
 現在本町で行われている獅子舞は、「乱獅子」と「庭獅子」と呼ばれる二種類がある。前者は、永木や日浦や長沢の二人立ち一頭の獅子舞であるが、残念ながら日浦と長沢のそれは数年前になくなってしまったようだ。
 後者の「庭獅子」は雌雄二頭で演じられ、門前地区で行われている。
 内容・由来とも多少は異なるが、鳴物(囃方)・子役(狐・猿・老人・狩人等々)を配しての演技は共通している。
 現在も郷土芸能保存会を組織し伝統維持に努めているが、過疎と後継者不足で、存続に頭を悩ましている。

1 永木獅子(乱獅子)について

 永木獅子は天皇崩御等の年を除けば毎年奉納されており現在一六〇回(平成五年)と記録されている(現存する記録簿の最初は明治三九年起で、その時七四回とある)。
○ストーリー
 前半では、静かで平和な農村の中で子役達(猿等)が優雅な舞踊を演じるが、時には農作物を傷つける悪戯もするため狩人に懲らしめてもらう。後半に至り、荒くれ者の雄獅子が登場し農作物を荒らすため狩人に仕止めてもらうというものである。
○発表の機会
 現在は秋祭当日、神社境内とお旅所の二ヶ所となっている(最近では郷土芸能発表会で演じることもある)。
 昔は後祭の永木地区の小社(五社)や区長宅、希望者宅でも発表していた。これは練習に励んできた青年達にとって二ヶ所では発表する機会が少なかったためと考えられる。
○構 成
 二人立ち獅子一頭(青年 二人)
 老人・猿・狐(二人)・狩人・子役(五人)
○楽 器
 大太鼓・締太鼓
○扮装と採物
 獅子 獅子頭・唐草模様胴着(油単)・股引・黒足袋
 猟師 黒紋付羽織・股引・手甲・足袋・わらじ・鉢巻き・火縄銃・刀
 老人 黒着物と羽織・股引・手甲・足袋・わらじ・黒頭巾・面・くわ・ひょうたん
 狐と猿 それぞれの袋面をつけ股引、上衣に垂れ飾付きの襷をかけ、手甲・足袋・草履をはく。狐はボデン、猿は草刈鎌・種かご
O出演順序
 開始三〇分前に寄せ太鼓を鳴らす。楼門前に並び宮入りし神事を受け発表に移る。
 最初、狐と狩人(狩人の仕掛けた罠にかかった真似をした狐が狩人と戯れる場面)
 次に、老人と猿(老人が種子を蒔く。猿が掘り返して食べ老人をからかう場面)
 終に、獅子と狩人(勇壮活発に乱舞する獅子が狩人に仕止められる場面)
〇記録簿(写)
 昭和七年度 一〇〇回
  主世話   植田繁雄 二宮益見
  宮太鼓   篠崎 議    小噺 二宮益見
  頭      中岡長市    尻  山本 甫
  お旅太鼓  植田繁雄   小噺 森岡 清
  頭      入岡好太郎   尻  山下秀五郎
  小芸連中
  狩人 松本健一  老人 長田公雄  猿 宮内 博
  上下狐 宮岡一實 篠崎 正
  但若連中 一九名             以上

2 門前獅子(庭獅子)について

 門前地区の庭獅子については、いつ頃、どこから伝えられたか資料がないため詳らかではないが、獅子舞の道具箱に文久元年(一八六一)あり、この箱が最初の箱であるとすれば約一三五年前に始められたと考えられる。戦後しばらくして一時中断したこともあったが、一〇年余り前から復活し現在に至っている。
 ストーリーについては永木獅子とほとんど同じであるが、最後に老夫婦が餅搗きをし、お祝いをする場面がある。
〇発表の機会
 秋祭り当日、神社境内、お旅所、盛景寺(現在)
 昔は後祭りに門前部落の神社・お寺・金毘羅さん等でも舞っていた。
〇構 成
 二人立ち獅子 二頭。猿、狐二匹、老夫婦、狩人、大黒さん
〇楽 器
 大太鼓・締太鼓・拍子木
〇扮装と採物
 扮装については永木獅子とほとんど同じである。採物は大黒さんや老婦が出演するためか草刈鎌・臼・杵・手桶・とじたみなどが増える。
〇出演順序
 (1) 獅子が出場、大黒さんが飼い慣らす場面
 (2) 老人が種子を蒔き、猿がじゃまするので、狩人に頼んで猿退治をしてもらう場面
 (3) 狐が登場、楽しく遊んでいるところに、狩人が罠を仕掛けてとろうとする場面
 (4) 老夫婦が登場、おもしろおかしく餅搗きをしてお祝いをする場面で終了する(現在はないが復活予定)。
 全体的に乱獅子に比ベテンポがゆるく、ゆったりとした動作が多く、短譜の繰り返しが多い。

3 獅子舞の民俗

 獅子舞は昔から村の若連中(青年団)が担当し、継承してきた優れた郷土芸能である。それだけに、昔から受け継ぎ鍛えられてきた獅子舞や老人・猟師・狐・猿等の演技には決った型があり、その型を十分身に付けるためには厳しい練習と厳格な規律があった。
 部落の男子は一五歳になると若連中に入り、結婚するまでもしくは結婚しても二五歳までは付き合うよう決められていた。
 若連中の長を「主世話」と呼び、主世話の権力は大きく若連中を支配統率し幅をきかしていた。

 獅子舞稽古(ならし)と若連中
 村の祭礼行事の中で獅子舞一連の行事は楽しく重要なものであり、若連中の果たす役割は大きかった。加えて芸能として技を競い高めるために、かなり早くから稽古を始めなければ子役の子供達が覚えきれず、約一ヶ月前には始められていた。
 勿論太鼓のリズムを記録した採譜もなく、動作を説明した記録もない。ひたすら先輩の所作を体と心で覚え受け継ぎ、次の世代へ受け渡すということなので、稽古中新入りは先輩の動作を見学しつつ、稽古が終わってから練習に励んだという。
 祭礼が無事終わった後、諸道具の「干し物」及び算用締をし慰労懇親をした。これらの費用はすべて主世話の差配によっておこなわれた。
 収入源としては、演技中に村人(観客)からいただいく心付け「御花」と呼ばれているもの、或は地区の全戸からなる寄付金(昔は米一升の代金)等であるが、地区によっても異なった。子役達にはそれぞれ謝金も払われていた。
(獅子舞については城戸庄五郎(永木)宮田岸衛(門前)両氏の協力を得た)

舎儀利

舎儀利