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中山町誌

三、 お供相撲 (平沢地区)

 起源についてはっきりした資料はないが、江戸時代の初期かそれ以前に平沢の信仰篤い人(出渕の某)が氏神様を慰め至誠を奉らんとして始めた花相撲がその発祥と推測される。
 以来今日に至るまで絶えることなく、祭礼の宮出し、お旅所の出御の前に必ず行われている珍しい催し物の一つである。
 地区の世話人により引継がれ、行司の申立と各力士の土俵入りが行われる。

 行司申立文
 東西東西ざんじが間、双方平一面に御鎮まり下されましょうぞなまった。
 今日は氏神の祭礼是れに依りて、広間に於て相撲興行相企てしんぎょういさめ奉る。
 さて又相撲の始まりを詳しく尋ね奉れば、昔もろこし唐巌が渕と申する所に、兄弟三人ござわりたり。ガマン、ジャマン、ガンマンと云いし中に、ジャマンの力は世にこいし。
 四百四洲はそのあいに、手にたる者は一人も候わず。
 さあれば、日本へ渡らんと、豊年三年三月下旬の事なりし。
 しがにかどより、嵯峨の天皇へ三代仕奉る。あれとらん人とらんあらそうところに、都のあらんべ是を聞き、二条堀川高橋真左衛門の以上。歳積れば十八才。力は八十四人の力。進み出ては望みきり上へ張りたる水七は、神明仏陀のとしょうなりまった。
 四本柱はしめのししゅう。四天の王はかたどりし土俵の数は四四十六俵。十六羅漢にひょうしたり。
 げにげにかほどな御相撲を勝負つけては、あしかりなんとその由来おおしたいえど、先ずはあらあらと謹んで申す。