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中山町誌

奥田 源一郎 (おくだ げんいちろう)

 明治二一年~昭和四九年(一八八八~一九七四)農林業の指導者・愛媛物産の販売業。明治二一年一二月一五日伊予郡中山村長沢(現中山町)で奥田吟太郎の長男として生まれた。中山小学校高等科課程を卒業後家業を継ぎ、地域の青年団育成に活躍、若くして中山町会議員となり(大正六~一四年)、大正九年長沢地区の耕地整理を成し遂げ(上長沢に記念碑がある)、山村の農業改善に努力した。また、中山木炭出荷組合を設立し、組合長となり、東京の三井物産などと取り引きして販路を拡大し「中山炭」の名声を全国に広げた。
 山村の産業発展のためには、農林産物の販路を拡大することが必要であると考え、昭和七年、満洲に雄飛しようと志し、大連(現中国東北地方遼東半島の旅大)若狭町に 「愛媛物産販売所―奥田商会―」を開設し、愛媛県の物産を関東軍・関東庁に卸す御用商人となり、取り引きを大きく確かなものにして活躍した。
 その取り扱った物産の主なものは、木材・荷作り用箱材(郡中・宇和島)・竹・木炭・傘(中山町)・花かつを(郡中町)・煮干し(郡中町・上灘)・干し蒲鉾(八幡浜)・みかん・陶器など愛媛県下の生産物を毎月高浜港から満洲に向けて、県指定貨物船「照国丸」(三、三〇〇トン)で運び、関東軍をはじめ満洲各地に販売を展開した。さらに、販売物産の拡大とともに、郡中港からチャーターした貨物船で月に一~二回出荷することもあった。
 次男の雅一は郡中町に取扱店を設けて集荷を担当して活躍していた。太平洋戦争の拡大に伴い、源一郎の手足となって働いた長男の善平・次男の雅一が相ついで応召された。戦局は思わしくなくなり、昭和一九年源一郎はいったん帰国したが、再び満洲に渡ることは出来なかった。昭和九年から共に働いていた甥の喜作も終戦後の昭和二二年に引き上げた。昭和七年以来愛媛の物産を大量に販売し、活躍した「愛媛物産販売所」も終戦と共にその働きを閉じた。
 戦後、源一郎は中山町農業委員(昭和二六~三〇年)に選任され、自作農創設に尽力し郷土中山町の農林業復興も一段落したところで、伊予郡松前町に出て竹材店を経営して、建築用・農業の野菜早期栽培用の竹材を中山町はもちろん広く県下から集荷して、建築業者や各地の農業協同組合に販売し、竹の販路に貢献した。
 若い時から神仏の信仰心篤く、大興寺や永木の三島神社の総代となり寺社に田畑や山を寄進するなどしてよく働いた。また、二人の息子を戦争で亡くして、家の経営に多大の困難をもたらしたが、そのことで他人に愚痴ひとつ述べることもなく、昭和四九年九月一九日、八六歳で天寿を全うした。